チェチェン総合情報
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イングーシの辺境から〜
一族を祭る塔が倒れるのはなぜなのか?

トハバーエルドウイ寺院関連記事:日本カフカスクラブのサイトにある「並河萬里氏の写真を通して見る、チェチェン文化の姿」では、 文中のトハバーエルドウイ寺院の写真を見ることができます。

(ヤン・チェスノフ/民族学者)

聖域に隠された兵営

もしも、ウラジーミル州のネルリ川岸のポクロフ寺院の鼻先に、テロリスト撲滅作戦のための戦車が隠されたら、ロシア人はどう思うだろう?ポクロフ寺院に相当するのが、山岳国イングーシにある、トハバーエルドウイ寺院だ。この寺院は、12世紀にグルジアのタマーラ女帝によって建てられたとされ、イングーシ、グルジアにおけるビザンツ建築の傑作である。どこかウラジミルルーシ(ロシアの古代国家)の初期の建築物に近いものだ。

ロシア軍の戦車が、その寺院からわずか30メートルのところの地中に少し埋めたかたちで隠されている。そのまわりは塹壕が掘られ、さらに、寺院の周囲の斜面は装甲車などのキャタピラによって掘り返されている。ロシアの軍人たちは、チェチェンとイングーシの境にある山なみのすぐ向こうに、チェチェンの武装勢力が隠れていると考えているのだ。しかし、ここまで挑発的なばかげたやり方は行き過ぎではないだろうか?

第58部隊、木ねじ

われわれが、イングーシ最後の異教の呪術師の墓を調べに、ハウチエヴイエの一族の墓地を訪ねたあと、わずかな人数で斜面を下っていた時のことだ。

遠くの国境警備隊の詰め所から突然、機銃掃射があり、われわれは将校と数人の兵士に取り囲まれた。兵士たちは少し離れて警戒態勢をとっている。このときは単なる身分証明書のチェックで終わった。しかし、国境警備の見張り所からは、ずっと見えていたはずだ。めがねの年寄り二人が斜面を降りていて、そのうち一人はビデオカメラの三脚を担いでいた。どう見ても武装勢力には見えないのに、機銃掃射までする必要があったのだろうか?

もっとも、国境警備隊の態度は十分我慢できる程度のもので、将校たちは自分の名を名乗り、そのうち二人はイングーシについて、また、墓所であるこれらの塔についての文献も読んでいた。しかし陸軍の兵士と将校はもっと手荒だった。彼らの話では、ここにいる第58部隊はほとんどが傭兵で、彼らはなぜか「木ねじ」と呼ばれている。

私はこのトハバーエルドウイ寺院を、ここ15年間調査している。建物は急速に破壊が進んでいる。すでに屋根の瓦はなくなっており、降雨と冬季の凍結によって石積みが破壊されている。亀裂は壁面と内部構造を分離し、亀裂の大きさは手をさしこめるほどだ。

寺院の中や周囲に、勇猛果敢な第58部隊が残した痕は目を覆うばかりだった。以前にあった石の腰掛けはなくなっており、十字架は倒され、割れている。たき火をたいたあとがディーゼルオイルの悪臭を放って、酒瓶が散乱していた。寺院の祭壇に当たる東側の壁際は便所として使われていた。

7月11日に、ロシア軍のヘリコプターが、ロケット弾によって「太陽の墓所」を木っ端みじんにうち砕いた。イングーシ人の祖先たちは、地上に建てた石づくりの納骨所に死者を葬った。こうした墓所はいくつかの高い塔のグループの近くに建っている。この古墳は、トハバーエルドウイ寺院と同じ地方にある。

墓所への攻撃は、イングーシの共和国中が知るところとなった。われわれ研究者は、ふたたび山に急行した。この時はすでに寺院の内部はあわただしく片付けられており、土間も掃き清められ、堂内の片隅に、潅木の枝で作った箒が転がっていたが、戦車と塹壕はそのままだった。

ロシア軍に行く手をはばまれる

有名な中世からの集落ヴォヴヌシカ村に向かい、山奥へアッサ河沿いにわれわれの4輪駆動車ニーワを進めようとしたが、急峻な登りの途中でロシア軍のトラックに行く手を阻まれた。兵士たちは、トラックが故障して動けなくなっていると言う。われわれは後戻りせざるを得なくなった。近くに見えているのトハバーエルドウイ寺院の方に上がるために渡らねばならないアッサ河の橋に近づいた時、橋が軍の自動車化部隊と第58部隊の兵士によって通行止めになっていることがわかった。潅木の陰に二人ずつの兵士が隠れ、対岸に集まっている人々に自動小銃や機関銃を向けている。軍隊は違法にも、われわれ調査グループばかりか、その地区の行政責任者さえ通そうとしない。

アッサ河の向こう側の急斜面には、芝をむしり取ってむき出しになった地面に白い石を並べて、でかでかと「俺たちがやらねば、誰が?」と落書きされていた。われわれが立ち去るころには、若いイングーシ人の一人がこの石の文字を消してしまったが、50メートル以上にわたるむき出しの地が、再び緑の草に覆われるのはいつのことだろうか?

尖塔と山の人々の文化

タルギム峡谷やジェイラフ峡谷の尖塔の状態も、トハバーエルドウイ寺院に劣らずひどいものだった。この高さ25メートルほどもある背高ノッポの塔は、世界の七不思議の一つでもある。イングーシでは、15世紀から18世紀にかけて、このような尖塔が次々に作られた。これは、イングーシ民族の知恵の結晶である。イングーシ人は、このような尖塔を、オセチア、チェチェン、ヘフスル人のためにも作っていた。この一見心許ないヒョロヒョロした塔は、どんな地震にも決して壊れなかった。というのも塔の土台の中央部は岩盤に、土台の縁は柔らかい地面に載せて建てられていたからだ。そのおかげで、地震の際に塔は揺れるが、倒れることはなかった。塔の角の一つが風の強い方角に向けられており、縦の軸は強度をつけるためにやや斜面の方向に向けられていた。山の斜面は、人間が何らかの細工をすればただちに地崩れを起こすので、昔のチェチェンやイングーシの羊飼いは地に力を加えるような高いかかとの靴を履くことを禁じられ、羊の群れを走らせれば罰せられた。そのおかげでこれらの尖塔は数百年の歳月を耐えてきたのだ。

俺たちがやらねば、誰が?

しかし、これらの塔の爆破が始まった。ソビエト政権の時代だ。反ソビエト派がこのなかに潜んでいるという理由だった。ことに被害がひどかったのは、1944年のチェチェン人とイングーシ人のカザフスタンへの強制移住の時だった。

現在、われわれは当時より民主的で、教育も受けるようになり、ピサの斜塔が倒れそうだと言っては不安げにそれを見守っている。しかし、前述の峡谷には曲射砲(152ミリという口径の重機関砲のひとつ)の砲列が敷かれ、山の向こうのチェチェンに向けて重火器が火を吹いてきた。その衝撃で、それでなくとも破壊が始まっている危なげな塔からは、ばらばらと石が落ち、全体に亀裂が走っている。数ヶ月前にイングーシ共和国の政府はこれらの塔の緊急修復令を出し、それらの塔の持ち主に修復への参加を呼びかけた。

ジェイラフ村のツローヴイエ家の塔が修復されているのを見たのは嬉しかった。道中カルトエヴイ一族の者にも出会ったが、彼らも一族の塔を調べに行くところだった。落書きではないが、「俺たち以外の誰がこれらの塔を救ってくれるのか?」と言いたくなる。

少なくとも、史跡を戦車の隠れ家に使う連中ではないだろう。

ヤン・チェスノフ:ロシア科学アカデミー 民族学・人類学研究所上級研究員

初出:ノーヴォエ・ヴレーミヤ 2001年31号
チェチェンニュース Vol.01 No.29 2001.11.02

(T.K訳)