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モスクワ劇場占拠事件はロシアの挑発だった
「チェチェンのテロ」の図式

初出:チェチェンニュース Vol.03 No.21 2003.05.08 本文末尾の日付にて改稿

ロシアの危険な休日

5月9日は、旧ソ連がナチスドイツとの戦争に勝利した記念日である。毎年この日には、市民が町に繰り出し、パレードが行われる。男性の祝日という位置付けで、バレンタインデーのような意味合いもある。しかしチェチェン問題を中心にロシアを見てゆくと、こういう記念日が近づくたびに、不安な予感がする。

古い話にはなるが、1944年の2月23日(赤軍記念日)には、軍のデモンストレーションを見に広場に集まった人々を皮切りに、チェチェン人の50万人すべてが、カザフスタンに強制移住させられた。これにより、チェチェン人の半分から2/3が死亡したと言われる。

先に挙げた対独戦勝記念日でいうと、昨年の5月9日、チェチェンの東隣に位置するダゲスタン共和国の港町カスピスクで、戦勝記念のパレードの最中に強力な爆弾が爆発し、40人以上が死亡した。事件直後から、ロシア政府は、犯人がチェチェン人のラッバニ・ハリロフという野戦司令官だと主張している。

「チェチェンのテロ」の図式

日本の常識では考えにくいが、ロシアでは、この種の事件は、ほとんど犯人が逮捕されないままに幕がひかれる。まず、お祭り気分のなかで凶悪な事件が発生する。犯行声明が出ていない段階で、犯人の名前または人種が、当局から発表される。そして、すぐにチェチェンではロシア軍による大規模な掃討作戦が始まる。人権侵害がどれだけ発生しても、「チェチェン人のテロ」のすぐ後なので、ロシア国内でも国際社会でも、作戦に対する批判は強くならない。結局、犯行声明らしきものは誰からも発表されない。これが一つのパターンだ。

たとえば、1999年にモスクワなど、ロシアの3つの都市で連続してアパートが爆破され、300人近い犠牲者が出たとき、「犯人はチェチェン人」と発表され、すぐに、チェチェン侵攻が開始された。国際世論は、このアパート爆破事件が「チェチェン人のテロ」だというロシア側の主張をもとに、チェチェン侵攻を正当なものと受け取った。眉唾なものを感じた人は少数だった。

アパート爆破事件は、ロシア南部のスタブロポリ地方の裁判所で、なぜかチェルケス人(チェチェンと同じ北カフカスに住む民族)が裁判にかけられた。容疑はチェチェンからモスクワへの、爆発物の運搬だという。

この事件は5月1日、突然「けり」がついた。ロシア連邦検察庁はこの事件の捜査を打ち切ったのだ。1日は旧労働者団結記念日で、現在は単なる労働者の休日になっている。この日、検察庁はたった1ページの声明を発表した。ニューヨークタイムスによると、ロシア側が容疑者としてあげているうち、5人はすでに死亡、2人はモスクワの刑務所にいるが裁判の予定はなし。この声明は、ロシアがゴールデンウィークに入るちょうどその日に発表された。まるで人目につくのを恐れるように。

カスピスク事件のハリロフはその後逮捕されたか?

否。5月20日のインターファックス通信によると、ハリロフは国際手配の甲斐なく「チェチェンに逃亡、戦闘中に死亡した」という。ハリロフの死亡は何者かがチェチェンから知らせを運び、「ハリロフの家族の関係者」という肩書きの人物がインターファックスに通報した。同通信によれば、ハリロフの共犯者数名が、今もダゲスタンで拘置されているようだが、いずれ忘れられるだろう。もみ消し工作には、曖昧さがつきものだ。

劇場占拠犯の1人はロシア側特務機関員

陰謀は万能ではない。事件そのものが欺瞞から始まっているとしたら、証拠を集め、犯人を逮捕し、法廷で訴追するというプロセスは、権力にとってもなかなか難しい。事件は、起こった時点で「チェチェン人のテロ」として宣伝され、戦争を正当化するという役割を終えてしまうので、「後始末」がおろそかになりがちだという言い方もできる。そうして忘れられていく事件をジャーナリストたちが調べてみると、情報のつぎはぎの間から、思わぬボロがはみ出しているのを見つけることになる。

4月28日付けのロシアの新聞、「ノーヴァヤ・ガゼータ」は、チェチェン問題を熱心に追っているアンナ・ポリトコフスカヤが、ハンパシャ・テルキバエフという30歳のチェチェン人からとったインタビューを掲載した。テルキバエフは、昨年10月のモスクワ劇場占拠事件で、ゲリラの一人として襲撃に参加し、特殊部隊の突入寸前に姿を消した人物で、ロシア側特務機関員である疑いが濃厚だ。では、どうしてチェチェン人の「テロリスト集団」の中に、ロシアの特務機関員が混ざっていたのだろうか?

テルキバエフはさまざまな写真と書類をポリトコフスカヤに見せた。まず、ロシアのヤストルゼムスキー大統領補佐官と一緒に写った写真。そしてチェチェンの指導者、マスハドフ大統領と一緒の写真。さらにロシアの国営紙「ロッシスカヤ・ガゼータ」の記者としての身分証。そしてこう語った。「僕はチェチェン人たちのモスクワ入りをアレンジして、劇場に一緒に入った。ブジョンノフスク* がそうだったように、和平交渉には一種の賑やかしも必要なんだ」と。

ポリトコフスカヤとノーヴァヤ・ガゼータの専門家は、大半が粗雑な合成写真だと判断した。ただし、マスハドフとの写真は本物らしい。実はテルキバエフには、マスハドフの報道官だった時代もあるのだ。

劇場占拠事件はロシア特務機関の挑発の結果

アンナ・ポリトコフスカヤは、こう結論する。モスクワ劇場占拠事件(ノルド−オスト事件)の犯人グループの中には、テルキバエフらロシア特務機関員が混ざっていた。事件の発生をロシア当局は予期していた。しかし予防しようとはしなかったのだ。

今年4月17日に、ロシアのセルゲイ・ユシェンコフ下院議員が自宅前で暗殺された。元ロシア連邦保安局(FSB)大佐のアレクサンドル・リトビネンコによると、ユシェンコフは、モスクワ劇場占拠事件に関心を持っていた。「私はユシェンコフに、テルキバエフについての詳細なデータを渡した。彼はそのために処理されたのだ」と話している。テルキバエフと名乗る人物は、ロシア軍事情報部(GRU)の所属だという意見もある。 「チェチェンのテロ」の図式はおおまかにいって、以上のようなことである。

(2003.05.28 大富亮/チェチェンニュース)

*1995年、第一次チェチェン戦争中に、南ロシア・ブジョンノフスクの病院をチェチェンゲリラが占拠し、和平交渉を要求した。チェルノムイルジン首相(当時)がゲリラたちに和平交渉の開始を約束し、和平のきっかけとなった。