チェチェン総合情報

人名ノート


1.アスラン・マスハドフ(元・第三代チェチェン共和国大統領)、2.ジョハール・ドゥダーエフ(初代大統領)、3.ゼリムハ・ヤンダルビエフ(第二代大統領、バイナフ民主党党首)。マスハドフはソビエト陸軍の軍装に、チェチェンの伝統的な羊毛の帽子。ドゥダーエフは空軍の軍装。

ルスラン・アウシェフ(元イングーシ大統領)
アスランベク・アスラハノフ(ロシア大統領人権代表)
アブドゥラフマン・アフトルハノフ(歴史家)
イリアス・アフマドフ(チェチェン外交官)
アリ・アルハノフ(チェチェン共和国大統領・親ロシア派)
モフラジ・ウドゥゴフ(独立派・過激派イデオローグ)
ボリス・エリツィン(元ロシア連邦大統領)
ヴィクトル・カザンツェフ(元南部連邦管区大統領代表)
アフメド・カディロフ(元チェチェン共和国大統領・親ロシア派)
ラムザン・カディロフ(親ロシア派チェチェン第一副首相)
ベスラン・ガンタミロフ(親ロシア派政治家)
パーヴェル・グラチェフ(元ロシア国防相)
セルゲイ・コバリョフ(元ロシア下院議員)
アブドゥルハリム・サドゥラーエフ(チェチェン共和国大統領・独立派)
アフメド・ザカーエフ(チェチェン外交官)
アナトーリー・シャマーノフ(ロシア軍将校)
ゲンナジー・シュピグン(ロシア内務官僚)
セルゲイ・ショイグ(ロシア非常事態相)
セルゲイ・ステパシン(元ロシア首相)
ウラジーミル・ゾーリン(元・チェチェンにおける合同政権代表)
寺沢潤世(日本山妙法寺僧侶)
トーマス・デュワール(ジャーナリスト)
ジョハル・ドゥダーエフ(元チェチェン共和国大統領)
ルドニック・ドゥダーエフ(ロシア軍将校)
ハッサン・バイエフ(外科医)
ハッターブ(野戦司令官)
シャミール・バサーエフ(野戦司令官)
ルスラン・ハズブラートフ(チェチェン人政治家)
ウマル・ハンビエフ(チェチェン外交官、保健大臣・独立派)
アンドレイ・バビーツキ(ジャーナリスト、ラジオリバティー記者)
ウラジーミル・プーチン(ロシア連邦大統領)
エフゲニー・プリマコフ(元ロシア首相)
ボリス・ベレゾフスキー(政商)
アンナ・ポリトコフスカヤ(ジャーナリスト)
アスラン・マスハドフ(元チェチェン共和国大統領・独立派)
ゼリムハ・ヤンダルビエフ(元チェチェン共和国大統領・独立派)
アレクサンドル・リトビネンコ(元FSB将校)
イワン・ルイプキン(ロシア政治家)
アレクサンドル・レベジ(ロシア軍将校)


パーヴェル・グラチェフ
Grachev, Pavel

(1948-) 軍人。1992-96年のロシア国防相

ルスラン・ハズブラートフ
Khasbulatov, Ruslan

(1942-) 政治家。1990-93年ロシア連邦最高ソビエト議長。経済学者。チェチェン人。

ウマル・ハンビエフ
Khanbiev, Umar

(1955−) 外科医、チェチェン共和国イチケリア保健大臣(独立派)。チェチェン大統領在外総代表として、おもにヨーロッパを中心にして諸外国との交渉と世論工作を行っている。1955年に、チェチェン民族の強制移住先のキルギスタンに生まれ、60年に家族とともにチェチェンに帰還する。79年に外科医となり、第一次戦争中の95年、保健大臣に任命される。第二次の戦争が勃発した当時の99年10月から2000年1月までの4ヶ月、ロシア軍に包囲されたグロズヌイで外科治療にあたり、5003件の手術を実行する。それらのほとんどは切断手術で、拠点にしていたグロズヌイ第二産婦人科病院が破壊されたあとは地下室や防空壕を使って手術した。2000年の2月にロシア軍に拘束され、トルストイ・ユルトとグデルメスの選別収容所に入れられて、15日後に解放されるまでの間、拷問を受ける。現在はフランスに亡命中で、政治活動と同時に、アゼルバイジャンのバクーにいるチェチェン難民への医療支援活動をしている。ハンビエフは交渉による戦争の終結を訴える穏健派だが、最終的にはチェチェンが独立しなければ、400年近く続いたこの問題は解決しないと発言している。そして、和平提案として、在米のアフマドフ外務大臣が提唱する、チェチェンの暫定的国連統治案(アフマドフプラン)の推進を主張している。

演説「国連暫定統治によるチェチェン平和提案」

アスランベク・アスラハノフ
Aslakhanov, Aslambek

(1942-) 元チェチェン警察幹部、ロシア連邦最高会議、治安および組織犯罪委員会議長を務めた経験がある。チェチェン選出の下院議員。(現在は?)

アブドゥラフマン・アフトルハノフ
Avtorkhanov, Abdurakhman

(1908-97) チェチェン出身の政治学者・歴史学者。ソ連共産党中央事務局員を務めた後、1930年代にソ連から追放され、以後ドイツで暮らす。日本語に訳されている著書に「スターリン謀殺−スターリン死の謎 ベリヤの陰謀」(田辺稔訳・内藤剛介解説・中央アート出版社 1991)などがある。

アル・アルハノフ
Alhanov, Al

(1957−) 警察・内務官僚、チェチェン共和国政府(親ロシア派)大統領。ソビエト時代にロシアで警察関係の教育を受け、おもに交通関係を指揮していた。第一次のチェチェン戦争以来、親ロシア派として戦争にも参加するが、ロシア軍が敗退してからは南ロシアに逃れて警察署長となる。99年のロシア軍の再度の侵攻のあと、2003年から親ロシア派のチェチェン内務大臣となる。04年5月のカディロフ爆殺の際にも同じ場にいたために負傷。04年8月29日に行われた大統領選挙で当選するが、国際機関は現地情勢の不穏のため選挙監視を行えず、不正の報告も多かった。

寺沢潤世
Terasawa Junsei

(1950- )日本山妙法寺僧侶。石川県羽咋市に生まれる。17歳のとき、日本山妙法寺の藤井日達上人と出会い、師と仰ぐ。立教大学独文科を二年で中退、一九歳のとき、日達上人の手で出家得度。インドで五年、イギリスを中心にヨーロッパで一五年、修行し、平和活動を続ける。湾岸戦争の際には空爆下のピースキャンプに参加、九四年以降はチェチェンに赴いて平和を祈り、国連人権委員会をはじめとする多数の国際会議でチェチェン問題の解決を訴える。この過程で日本のチェチェン支援運動が立ち上げられた。

こうした平和活動を続ける寺沢師に対して、ロシア連邦当局は2000年に「好ましからざる人物」として入国禁止措置を発動し、現在もロシアへの入国が禁止されている。

関連サイト: ユーラシアからの便り
2005.5.27
2005.8.6
2005.8.6(Engrish)
2006.1.17

トーマス・デュワール
De Waal, Thomas

 英国人ジャーナリスト、IWPRのエディター。ヨーロッパでのチェチェン問題の権威の一人。

ゲンナジー・シュピグン
Shpigun, Gennadi

(19??-1999) 警察官僚、ダゲスタン生まれ、ロシア内務省に所属、第一次チェチェン戦争後のロシア大統領チェチェン特別代表。99年にグロズヌイで誘拐、殺害された。

ゼリムハ・ヤンダルビエフ
Yandarbiev, Zelimkhan

(1952-2004) 詩人。チェチェン独立運動のリーダーの一人。バイナフ民主党党首。 ドゥダーエフ時代に副大統領を務め、1996年4月にドゥダーエフが暗殺された後、臨時大統領となる。 97年1月27日に実施されたチェチェン共和国大統領選挙に出馬するが、落選。 2004年2月、亡命先のカタールの首都ドーハで暗殺された。カタール政府はロシア人の情報機関員2人を逮捕。

モフラジ・ウドゥゴフ
Udugov, Movladi

(1962-) チェチェンの過激派イデオローグ。ドゥダーエフ時代の情報相。カフカスセンターの社主。所在不明。

ウラジーミル・ゾーリン
Zorin, Vladimir

(1948- ) 2001年からロシア政府、民族問題担当相。1996-99年下院国内問題委員会議長、1995年にチェチェン暫定政権副代表。

ルスラン・アウシェフ
Aushev, Ruslan

(1954−) 大将。1971年にソビエト軍に入隊、1980−1987年アフガンに従軍。1993年5月から2001年12月までイングーシ共和国大統領。チェチェンのマスハドフ大統領とも信頼関係にあり、在職時にはロシアの対チェチェン政策に対して強硬に反発していた。

イリアス・アフマドフ・ハムザートヴィッチ
Akhmadov, Ilyas, Khamzatovich

(1960−) 官僚、チェチェン共和国外務大臣。1960年12月19日カザフスタン生まれ、62年に家族とともにチェチェンへ移住。78年から81年まで、ヴォルゴグラード政治大学に学び、81年から85年までソ連戦略ロケット軍に勤務。91年、ロストフ大学政治科学課を卒業、チェチェン共和国外務省に入省。94年から96年の間は対ロシア戦に参加。戦争終了とともに公務から離れる。99年6月29日、アスラン・マスハドフ大統領より外務大臣に指名される。2003年現在アメリカにおり、ディアスポラ政治家の一人としてアメリカの世論対策を行う。

ボリス・エリツィン
Yeltsin, Boris

ボリス・エリツィン
Yeltsin, Boris

(1931−) 建築家、元ロシア連邦大統領。1968年からウラル地方の共産党リーダー。1985年モスクワ入りし、87年から91年にかけ、ラジカルな行動で頭角をあらわす。91年6月、ロシア共和国大統領。1996年に再選。第一次、第二次チェチェン戦争開始時のロシア側の責任者。99年末に辞任し、プーチンに席を譲ると同時に大統領経験者の不逮捕特権を確保。

ヴィクトル・カザンツェフ
Kazantsev, Victor

大将。元ロシア軍チェチェン派遣合同軍司令官。北コーカサス軍管区司令官を経て、2000年3月から南部連邦管区大統領代表。2001年にはモスクワの空港でチェチェンのアフメド・ザカーエフ副首相と3時間にわたり交渉を行うが、1回きりで終わる。

アフメドハッジ・カディロフ
Kadyrov, Ahmad-Hadji

(1951−) 宗教指導者(ムフティ−)。もとは独立派として94年−96年の第一次チェチェン戦争を戦ったが、99年に始まった第二次チェチェン戦争で親ロシア派に。2000年6月からロシア政府の指名を受け、親ロシアの臨時行政府(傀儡政権)行政長官となる。03年10月、ロシア側の後押しにより大統領選挙に当選したが、このときの選挙には国際機関の監視もなく、多数の不正が報告されている。04年5月9日、グロズヌイのディナモ・スタジアムで、対独戦勝記念日のパレードを観覧中に爆殺される。チェチェン独立派の強硬派バサーエフが犯行声明を出したが、厳戒態勢下で発生したために、保安要員が犯行に関与したことも疑われている。

ラムザン・カディロフ(カドイロフ)
Kadyrov, Ramzan

(1976−) 少尉。親ロシア派私兵集団の長。チェチェン共和国政府(親ロシア派)第一副首相 を経て、チェチェン共和国政府(親ロシア派)大統領に就任(07年3月〜)。ツェントロイ村に生まれ、地元の学校を経てダゲスタンの実業学校に進む。96年から父親のアフメド・カディロフ(元親ロシア派大統領)のボディガードを務めた。A.カディロフが親ロシア派政府の首班となって以来、大統領警護隊長となって、数々の掃討作戦にも加わった。04年5月9日にA.カディロフが爆殺されたあと、10日にロシア政府により第一副首相に任命された。04年10月、ロシア南部連邦管区大統領代表の顧問になった。アムネスティ・インターナショナルを初めとする複数の人権団体は、ラムザンが「カディロフツィ(カディロフ一派)」と呼ばれる私兵集団を率いて、チェチェン各地で、同じチェチェン人に対する営利誘拐と略奪を繰り返していることを批判している。数々の「献身的」な働きをたたえて、ロシアのプーチン大統領は04年12月に最高位の勲章、ロシア連邦英雄章を与えた。

アムネスティ発表国際ニュース/チェチェンとイングーシの状況は悪化している。失踪、強かん、拷問、超法規的処刑の新たな証拠

ベスラン・ガンタミロフ
Gantamirov, Beslan

(1963−) ビジネスから転じて警察官。ドゥダーエフ時代は国家防衛隊を指揮。91年から93年までグロズヌイ市長。その後反政府に転じるが、横領容疑でモスクワの刑務所入り。1999年、特赦を受けてロシア軍側につき、手勢を率いてグロズヌイ入り。親ロシア政権のもとで再びグロズヌイ市長になるが、これ以降も公職を転々とする。2003年8月現在、親ロシア政権の Press minister とのこと。

セルゲイ・コバリョフ
Kovalyov, Sergei

(1930−) ベテランの人権活動家。1974年から1984年まで国内追放になり、各地の収容所を転々とする。1990年以降はロシア下院議員。1993年から96年まで大統領人権顧問。第一次チェチェン戦争に対する最大の批判者。1994年から1995にいたる冬、ロシア軍の空爆下、チェチェンの首都グロズヌイに滞在する。95年に南ロシア・ブジョンノフスクで起こった、バサーエフによる病院占拠事件(チェチェン・ロシアの和平交渉を要求した)の際には、人質解放後のチェチェンゲリラの安全に配慮して彼らと同行、「人間の盾」となった。高齢のためか第二次のチェチェン戦争についての行動は活発でないが、2002年10月のモスクワ人質事件の際には「唯一の道は交渉だ。マスハドフ、チェチェン議会、あるいはその代表、とにかく連邦軍と対峙しているその人々との交渉をすべきだ。チェチェンを、ロシアの指示に従うチェチェン人に統治させるのは、典型的な植民地政策に他ならない」と発言している。

アブドゥルハリム・サドゥラーエフ
Sadulaev, Abdul-Khalim

(1967−2006) チェチェン共和国大統領(独立派)。1994年から96年の第一次チェチェン戦争以来独立派。歴史と宗教を学んだ。97年から99年の間の戦間期は宗教活動をする。99年初めごろ、マスハドフ政権に対して、チェチェンのイスラム国家化をめざすバサーエフ派の圧力が加えられており、マスハドフは譲歩してイスラム教の要素をチェチェン憲法に導入するための作業部会を作った。サドゥラーエフは、そのメンバーに加わっていた。99年9月に第二次チェチェン戦争が始まり、サドゥラーエフはアルグンの防衛戦線に参加。2002年のチェチェン国家防衛評議会での決定により、シャリア法廷の議長に任命された。2005年3月9日、ロシア軍はアスラン・マスハドフ大統領を殺害し、サドゥラーエフはその地位を継いだ。2005年5月、サドゥラーエフは大統領令によって、チェチェン各地の抵抗戦線を整備し、あらたに北コーカサス全域の抵抗組織を統合する「コーカサス戦線」の設置を命令した。その司令官となったのは、シャミーリ・バサーエフである。2006年6月17日、アルグンで親ロシア派民兵部隊に殺害された。

アフメド・ザカーエフ
Zakaev, Akhmed

(1959−) 俳優、野戦司令官。チェチェン共和国外務大臣。イギリスにおける独立派のスポークスマン。チェチェン人の流刑先カザフスタンに生まれ、グローズヌイ文芸学校声楽科とボローネジ国立芸術大学卒、俳優稼業を続け、1991年からチェチェン演劇人同盟議長・ロシア演劇人同盟理事。1995年、第一次チェチェン戦争初期より、野戦司令官。ハサブ・ユルト合意準備代表団員。1997年、チェチェン共和国大統領選に出馬するが落選。1998年、チェチェン共和国副首相。2000年3月、戦傷を負いチェチェン国外に運び出される。2001年から、チェチェン共和国大統領特別代表として主にヨーロッパで活動。政治的立場はマスハドフにもっとも近いと目される。2002年11月、ロシア側の要求を受けたデンマーク官憲に拘留されるが、デンマーク政府はロシアへの引渡しを拒み、釈放された。友人で女優のヴァネッサ・レッドグレイブは、「国際ザカーエフ委員会」のリーダーとして、ザカーエフの釈放のための運動を推進した。2003年にはイギリス入りするが、ふたたび拘束され、裁判所でロシアへの送還を巡って審理に入るも、強制送還はなされなかった。2006年3月、独立派のサドゥラーエフ大統領の指名により外務大臣となる。

この戦争に英雄はあり得ない
アフメド・ザカーエフ副首相インタビュー

アナトーリー・シャマーノフ
Shamanov, Anatoly

(1957−) 大将。第一次、第二次チェチェン戦争を指揮。2000年12月以降、ウリヤノフスク州知事を兼任。

セルゲイ・ショイグ
Shoigu, Sergei

(1955−) 建築家、ロシア非常事態相。1999年の春にプーチンをバックに連合党の党首となる。

セルゲイ・ステパシン
Stepashin, Sergei

(1952−)大将。レーニン記念ソ連高級軍事・政治アカデミー卒。ソ連内務省勤務を経て90年にロシア共和国人民代議員。94年3月、連邦諜報局(FSK)長官。95年4月、連邦保安局(FSB)長官。97年7月、司法相、98年4月、内務相。99年5月に首相に任命されるが、8月に解任されプーチンが後任の首相となる。同年12月の下院選で当選して下院議員に。

ジョハル・ドゥダーエフ
Dudayev, Jokhar

(1944−1996) 少将。91年から96年までチェチェンの初代大統領。強制移住先で生まれる。ウラジカフカスの北オセチア大学で数学を学んだものの中退。1962年にソビエト空軍に入隊し、空軍飛行学校を経て、モスクワのガガーリン空軍大学を卒業。アフガニスタン戦争に参加、1987年から91年まで、エストニア駐留。90年に少将に昇格。最後の任地はタルトゥの戦略爆撃機基地で、つまり核装備部隊の指揮官だった。91年にチェチェンに戻り、チェチェン独立運動を率いる。1996年4月21日、衛星電話で通信中にロシア軍のロケット弾を受けて死亡。ソ連軍時代のドゥダーエフの評価は概して良いが、チェチェンに戻り、大統領に就任してからの行動にはいまだに未解明の部分が多い。チェチェン紛争は結局、独立と引換に数万から数十万の命を奪いながら10年近く続いているのだが、ドゥダーエフに対するチェチェン人の支持はいまだに強いように見える。妻アッラはロシア人。第一次チェチェン戦争後にロシアから追放され、現在はアゼルバイジャン共和国のバクーで発言を続けている。彼女はチェチェン人からも信望の厚い、チェチェンを最もよく知るロシア人と言える。

ルドニック・ドゥダーエフ
Dudayev, Rudnik, Umalatovich

(1949−2005) 連邦保安局(FSB)将軍。チェチェン人。ウズベキスタン共和国、 Brich-Mulla に生まれる。法律を学んだのち、30年以上をソビエト/ロシアの治安機関で過ごす。2000年12月より、チェチェンの親ロシア政権の一員となる。2001年2月、親ロシア政権の安全保障会議議長。2000年の12月、グロズヌイの政府庁舎爆破事件の際に負傷し、一時昏睡状態になったが回復。2005年12月11日、グロズヌイの官舎の火災によって死亡。

傀儡機構治安責任者ルドゥニク・ドゥダーエフ将軍焼死


ハッサン・バイエフ
Baiev Khassan

2006年11月、ハッサン・バイエフが来日しました!

(1963−)外科医、柔道家。チェチェンの首都グロズヌイ郊外、アルハン・カラ生まれ。1977年ソ連邦ジュニア柔道大会で優勝し、以後多くの柔道大会にて金メダルを獲得。1985年クラスノヤルスク医科大学卒業。1988年チェチェンに帰国し、首都グロズヌイにて形成外科医として医務につく。1994年ロシア−チェチェン戦争の勃発とともに、野戦外科医として活躍。敵味方を区別しない医療活動のために、ロシア連邦軍とチェチェン過激派双方から命を狙われる。2000年米国へ亡命、同年11月米国NGOヒューマンライツ・ウォッチから「2000年人権監視者」の栄誉を受ける。 著書に「誓い チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語」(2004年アスペクト刊)がある。 書籍カバー:誓い

資料

バイエフ来日講演記録

ハッサン・バイエフを呼ぶ会

共同代表 林克明/岡田一男

112-0001 東京都文京区白山2-31-2-101 岡田一男気付
電話:03-4500-8535 ファックス:03-3811-4576 メール: baiev@zau.att.ne.jp

http://tokyocinema.net/baiev.htm


ハッターブ
Khattab

(?−2002) 1995年2月からチェチェン入りしているサウジ生まれの人物。ヨルダンのチェチェン人社会で生まれたとの説もある。アフガニスタン戦争にムジャヘディン側で従軍。FSBの発表によると2002年4月25日に死亡。死因不明。

シャミーリ・バサーエフ(バサエフ)
Basayev, Shamil

(1965-2005) チェチェンの野戦司令官。南部の町ヴェデノ生まれ。 チェチェンの19世紀の抵抗指導者、シャミーリの名にちなむ。 80年代にモスクワで学び、コンピュータの売買を営む。 青年時代を過ごしたモスクワのアパートには、チェ・ゲバラのポスターが貼られていた。 1991年のクーデターの際、民主勢力だったエリツィン側のバリケードには100人ほどのチェチェン人が参加しており、バサーエフもその一人だった。 チェチェンでの独立運動が本格化したころ、チェチェンに戻ってドゥダーエフらに合流。 1991年11月、南ロシアのミネラルナヤ・バダーで飛行機をハイジャックし、 トルコのアンカラに向かい、当時のロシア側による情報封鎖の実態を暴露するための 記者会見場の確保を要求するが、トルコ当局に拒否される。 1992年−1993年にかけてのアブハジア紛争(グルジア西部で分離独立を求めている地域)で、 チェチェン人の武装勢力を率い、義勇兵となってアブハジア側に立ってグルジアと戦う。 バサーエフは中東で軍事訓練を受け、「国際テロネットワーク」の一部だとの報道がよくされるが、 アブハジア紛争において、ロシア軍事情報部(GRU)の直接の訓練を受けていたことは常に省略される。 GRUのスタニスラフ・ルネフ大佐によれば、「バサーエフの部隊は、訓練を受けただけではない。 アブハジアの戦火に突入したこと自体が、GRUの専門家の指示によるものだ」 (John. B. Dunlop "Russia Confronts Chechnya - Root of a Separatist Conflict" 1998, p145)という。

1994年−1995年にかけてグロズヌイ守備部隊の指揮官。 1995年6月、ブジョンノフスクの病院占拠事件を主導。 それまで和平を拒否していたロシアを交渉のテーブルに引きずり出した。 この事件で民族の英雄となる。 なお、ロシア軍の爆撃により、ヴェデノに住んでいた彼の家族のうち、11人が死亡している。

第一次戦争の終わった後の1997年、 チェチェン共和国大統領選挙に立候補するも次点にて落選。 その後マスハドフ新大統領に招かれて入閣するが離反し、 マスハドフと対立しはじめる。 この時期にロシアの政商ベレゾフスキーと手を結び、資金援助を受ける。 99年、ハッターブ司令官とともに隣国ダゲスタンに侵攻。 2002年夏にはこれまでのいきさつを不問としたマスハドフ大統領との共闘を宣言するが、 10月23日のモスクワ劇場占拠事件後、事件の責任を取るとしてふたたび陣営を離れた。 その後の12月27日にグロズヌイで発生した親ロシア政権の政府庁舎爆破事件を自ら組織したと声明し、 事件への不関与を声明したマスハドフ政権中央との路線の違いを明らかにした。 マスハドフとの不一致はこの後同様のパターンが繰り返されている。

一定の軍事的資質を持ち、チェチェンの戦局を左右する人物と推察されるが、 バサーエフの行動はチェチェンにとって裏目に出ることが多い。 常にロシアを利用しようとし、結果としてロシアに利用されているのがバサーエフではないだろうか。

2006年7月10日、バサーエフはチェチェンに隣接するイングーシ共和国で、自動車での移動中に爆死した。ロシア当局は「特殊作戦によるもの」として、テロリストの殲滅を強調したが、根拠にとぼしく、遺体も公表されていない。逆に、自動車に積み込んでいた爆薬の誤爆説、独立派内の内紛説などが一般的になりつつある。

「われわれは自由である権利のために闘っている」
シャミーリ・バサーエフ野戦司令官インタビュー
http://chechennews.org/archives/20020524basyev.htm

「チャンネル4−−−ベスラン再び?」
シャミーリ・バサーエフ野戦司令官インタビュー/ベスラン事件のあとで
http://chechennews.org/chn/0503.htm

Shamil Basayev: Chechen warlord
BBCの人物情報。Tom de Waalによる。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/460594.stm

アンドレイ・バビーツキ
Babitsky, Andrei

 ジャーナリスト。1964年9月26日モスクワ生まれ。モスクワ国立大学で文学を専攻。ペレストロイカ期に人権運動に携わる。1987年から1989年に雑誌『グラスノスチ』の編集委員を務める。この時期バビーツキは人権運動に参加したことで当局に逮捕されている。1989年にはラジオ・リバティーの記者となり、1991年8月のクーデター時にロシア連邦議会庁舎から報道することで、ラジオ・リバティーの社長から「1991年8月19−23日に生死を賭けて報じた傑出したジャーナリズム」を評価され、受賞。1993年10月には、ラジオ・リバティーの議会記者として、議会への総攻撃(注)について報道。また、タジキスタンや北コーカサスの紛争地帯への取材も行った。第一次チェチェン戦争では、直接戦闘地から報道を行うラジオ・リバティーの特派員となる。

 1996年から1999年までは、モスクワおよび北コーカサスの取材を行っている。1999年8月には(チェチェン野戦司令官による)ダゲスタンへの軍事侵攻を取材。1999年11月以降は、チェチェンの首都グロズヌイから報道するラジオ・リバティーの特派員になる。バビーツキはロシア政府がグロズヌイを攻撃してからも荒廃したチェチェンの首都に留まり続けた唯一の非チェチェン人ジャーナリストであった。最近、チェチェンの最強硬派野戦司令官バサーエフのインタビューを敢行するなど、活躍は現在も続いており、ロシア政府から激しい圧力を受けている。

 2005年10月、日本のチェチェン連絡会議の招待により訪日。

配布資料:「終わりなきチェチェン戦争、強権化に向かうロシア社会」

ブックレット:「アンドレイ・バビーツキ講演録 終わりなきチェチェン戦争、強権化に向かうロシア社会」を刊行しました!

発行:チェチェン連絡会議 A5判63ページ・定価500円

2005年10月に来日したラジオ・リバティー記者の講演録を刊行しました。第一次チェチェン戦争以来、数え切れないくらいチェチェン入りしてきた記者による、渾身の講演録です。またフリージャーナリストの稲垣收さんによる論考「北オセチア学校占拠事件の深層」)を併載。どうぞお買い求めください。下記メールアドレスまでご連絡を。

お名前、発送先(できれば電話番号も)、部数をお知らせください。

注文先: ootomi*chechennews.org (*を@に置き換えてください)

詳しい内容...

ウラジーミル・プーチン
Putin, Vladimir

(1952−) 中佐(KGB)、ロシア連邦大統領。 レニングラード大学法学部卒。国家保安委員会(KGB−) に15年間勤務、うち7年は東ドイツ駐在と公式には発表されている。87年に帰国、予備役のままKGBを離れてレニングラード大学国際学部副学長。改革派知識人サプチャークのもとで、1990年から1996年まで、サンクト・ペテルスブルグ副市長。1997年3月に大統領府副長官、大統領監督総局長、98年5月に大統領府第一副長官、ロシア連邦保安局(FSB、KGBの後身−) 長官に就任。98年10月に安全保障会議メンバー。99年3月に安全保障会議書記。同年8月9日に、第一副首相、首相代行に指名される。8月16日、下院により首相に承認される。12月31日のエリツィン大統領の辞任を受けて、2000年1月、大統領代行。同年5月よりロシア連邦大統領。

エフゲニー・プリマコフ
Primakov, Evgenii, Maksimovich

(1929−) 新聞記者出身の政治家。キエフ生まれ。モスクワ大学東洋語学部卒。専門は中東研究。元「プラウダ」の中東特派員。中東に知己多い。1986−89年までソ連共産党中央委員、89−90年、政治局員候補と最高会議連邦議会議長を兼任。ソ連邦崩壊後は、91−96年、対外情報庁長官。96−98年、外務大臣。98−99年、首相。チェチェン侵攻に慎重だったロシアの政治家のひとり。自著「クレムリンの5000日 プリマコフ政治外交秘録」(NTT出版、2002)によれば、1994年の第一次チェチェン戦争開始直前、エリツィン大統領に対して、「軍隊を導入すれば、そのあとどう撤収できるかわからない、ドゥダーエフの空軍時代の上官をチェチェンに派遣して、収拾すべき」という意味の進言をしている。工作そのものは実現したが、収拾できなかった。同書によれば、次にプリマコフがチェチェン情勢に直面するのは、第二次戦争前の98年10月(首相時代)。チェチェンのマスハドフ大統領からの呼びかけで、ステパシンらとともにウラジカフカスで会談する。このときマスハドフはバサーエフとの深刻な対立を抱えており、「バサーエフとウドゥーゴフは、ロシアの一部勢力との密接な関係を保っている。一部勢力とはベレゾフスキーで、物資、身代金の立て替え、各種通信機器の提供が行われている」と話したという。マスハドフは今でもプリマコフに尊敬を表するのにやぶさかでないようだ。元FSBトップとチェチェン大統領の信頼関係は気になるところ。

ボリス・ベレゾフスキー
Berezovsky, Boris

(1946−) 政治家、メディア有力者。元ソ連科学アカデミー会員、応用数学、経営学者。その後ソ連末期に自動車ディーラーとなり、メルセデス・ベンツを含む輸出入行を始めて成功する。「独立新聞」、「シベリア石油(シブネフチ)を支配し、国営航空会社アエロフロートの経営にも関与。これらを統括したのが持ち株会社「ロゴバス」。96年から99年の戦間期にはチェチェン訪を繰り返して、バサーエフ司令官にも資金援助していた(A.クリコフ元内相によると97年に1000万ドル)。99年12月末のエリツィンの辞任以降権力を失い、2000年以降はロシアを離れてロンドンに亡命し、「99年のモスクワアパート爆破事件はFSBの仕業」との意見を繰り返し発表している。当人によれば96年から99年の戦間期にバサーエフを通じてチェチェンの復興支援を行い、最近は負傷したマスハドフ大統領に医療支援をしたという。政権中央から排除されている分、現政権の弱点であるチェチェン戦争を重点的に攻撃しているが、もともと96−99年の戦間期にチェチェンに出入りしていたのは、チェチェンでの影響力がロシアでの影響力に繋がると考えていたためであろう。一連のチェチェン寄りの発言は額面どおりに受け取ることができない。ロンドンでは、元FSB士官のA.リトビネンコや、独立派のザカーエフ副首相に資金面で支援をしている。あくまでカフカスを諦めない人物。

アンナ・ポリトコフスカヤ
Politkovskaya, Anna

 (1958.08.30-2006.10.07) ジャーナリスト。ロシア人。1980年、国立モスクワ大学ジャーナリズム学科卒業。モスクワの新聞の「ノーヴァヤ・ガゼータ」評論員。1999年夏以来、チェチェンに通い、戦地に暮らす市民の声を伝えている。その活動に対して、ロシア連邦ジャーナリスト同盟から「ロシア黄金のペン賞(2000)」、アムネスティ・インターナショナル英国支部から「世界人権報道賞(2001)」、および池澤夏樹氏が選考委員を務める国際ルポルタージュ文学賞「ユリシーズ賞」を受けた。2002年、モスクワ劇場占拠事件では、武装グループから仲介役を指名され、交渉にあたった。2004年の北オセチア・ベスラン学校占拠人質事件では、チェチェン独立派のスポークスマン、アフメド・ザカーエフらと連絡をとりつつ、空路北オセチアに向かうが、KGB要員たちの乗り合わせた機内で毒を盛られ、一時重態に。その後執筆に復帰したが、2006年10月7日、自宅の集合住宅のエレベーターで何者かに銃殺された。

 著書に「チェチェンやめられない戦争」(2004年NHK出版)と「プーチニズム 報道されないロシアの現実」(2005年、同)がある。

2006年10月、アンナ・ポリトコフスカヤ追悼集会を開催しました。

アンナ・ポリトコフスカヤ追悼集会記録

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アンナ・ポリトコフスカヤ情報

アスラン・マスハドフ
Maskhadov, Aslan

(1951.09.21-2005.03.08) 陸軍大佐。チェチェン共和国大統領。 強制移住先のカザフスタン生まれ。アレロイ・テイプ出身。6歳でチェチェン北部ナドテレチヌイ地区の Zebir-Yurt に、 家族とともに戻った。1969年にソビエト陸軍に入隊。 トビリシにある高等砲兵学校を1972年に卒業、レニングラードのカリーニン軍事大学を81年に卒業。 兵科は砲兵。バルト諸国に駐留し、極東で軍務についていた時期もある。 他にハンガリーなどで連隊クラスの指揮官を務める。1991年、バルト三国の独立闘争の際、 ヴュリニスに進攻したロシア軍の中に、マスハドフの部隊もあった。この年に退役。 1992年からチェチェン軍に参加し、93年以降は総参謀長としてロシア軍との戦闘を指揮。 連邦中央との交渉の中心人物として、95年夏にグロズヌイで行われた交渉、 96年6月のナズランでの交渉、同月28日から7月4日までのノビ−アタギでの交渉に参加。 同年8月、ロシアのアレクサンドル・レベジ安全保障会議書記とともに第一次戦争の休戦協定である ハサブユルト合意まとめ、96年10月から97年1月までの間、暫定政権の首相。 1997年5月にはロシアのエリツィン大統領との間に平和条約を結ぶ。 1997年1月の選挙によりチェチェン共和国大統領。 2002年1月に任期満了したが、戦争状態のため自動的に続投。 チェチェン国内で軍を統率すると同時に外国との交渉を手がけている。 基本的なスタンスは、「ロシアとの交渉による終戦と、ロシア連邦内におけるチェチェンの高度な自治の獲得」。国際社会からの介入も受け入れる方針の、穏健派指導者。マスハドフの家族はマレーシアに避難中との報道もある。

 2005年3月8日、ロシア連邦保安局の特殊作戦により、トルストイ・ユルトで暗殺された。53歳。

この戦争でロシアはチェチェンを失うだろう
アスラン・マスハドフ大統領インタビュー

アレクサンドル・リトビネンコ
Litvinenko, Alexsander

(1962-2006.11.23) 1962年ヴォロネジ生まれ。88年からソ連国家保安委員会(KGB)防諜局、91年からロシア保安省(MB)、連邦防諜庁(FSK)、連邦保安庁(FSB)に在籍、反テロ活動と組織犯罪撲滅を専門とする。97年、最も秘密の部門とされる組織犯罪分析局の上級作戦将校・第七部副部長。98年11月、モスクワでの記者会見でFSBから受けた違法な暗殺指令などを暴露した。翌99年から2000年にかけて逮捕、監獄収監、釈放を繰り返す。01年5月、英国で政治亡命が認められ、06年10月に英国市民権取得。06年11月、ロンドンで殺害。(下記書籍より) 表紙画像:ロシア闇の戦争

ロシア 闇の戦争 プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く
アレクサンドル・リトビネンコ著/光文社 \1,800

イワン・ルイプキン
Luipkin, Ivan

(1946−) 農業機械に関する技術者。政治家。元ロシア安全保障会議書記。1993年9月22日から10月4日まで、最高会議側について「ホワイトハウス」に籠城。特殊部隊突入後に退去。1994年1月、第五期ロシア下院議長に選出される。96年10月より、ロシア連邦安全保障会議書記及びチェチェン共和国担当ロシア連邦大統領全権代表。98年3月に退任。ルイプキンによれば、98年夏に数回、プーチンとチェチェン問題について私的に討議した。ルイプキンは「彼(プーチン)は、チェチェン問題を武力のカテゴリーからしか考えておらず、問題がわかっていなかったので、武力では解決できないのだという、やや陳腐な説明をせざるをえなかった」という。2002年6月28日、ウラジーミル・プーチン大統領宛ての公開状でチェチェン戦争の停戦、マスハードフチェチェン共和国大統領との交渉開始を呼びかける。翌日29日、チェチェン問題に関する姿勢を問われ、社会主義統一党代表のポストを解任される。2002年8月、スイスのチューリッヒで、マスハードフの特使、アフメド・ザカーエフ副首相兼文化相と会見する。チェチェン問題について相当の労力を割いている、ロシア側では稀有の政治家の一人である。ルイプキンについての疑問点は、96年―98年の間チェチェン担当全権代表を務めた時期、並行してベレゾフスキーがチェチェンに何度も出入りしていたことが、本人とセルゲイ・コバリョフの発言から確認されているが、ルイプキンがこれを肯定的にも否定的にも評価していない点である。両者はどのような関係にあったのだろうか。

アレクサンドル・レベジ
Lebed, Alexander

(1950−2002) 中将。退役後政治家に。フルンゼ軍事アカデミー卒。アフガニスタン戦争に従軍、1992年6月から95年6月までモルドバ駐留第14軍司令官。その他、ソビエト連邦内のホットスポットに駐留経験をもつ。1996年、ロシア大統領選に出馬するが落選、当時のエリツィン大統領に安全保障会議書記に起用され、チェチェン紛争解決の任にあたる。同年、チェチェンとの和平合意を結ぶ。1998年、シベリアのクラスノヤルスク地方の知事に立候補、就任。2002年4月、ヘリコプター墜落事故により死亡。

2005.12.18