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チェチェン紛争とは何か?

あるいは2005年11月の情勢分析

20万人が犠牲となったチェチェン紛争チェチェン戦争の理由強制移住第一次チェチェン戦争戦間期第二次チェチェン戦争ジェノサイド誘拐について「テロとの戦い」の文脈におけるチェチェン問題マスハドフ政権とその終焉


20万人が犠牲となったチェチェン紛争

 紛争の舞台となっているチェチェンは、16世紀のイワン雷帝の時代から帝政ロシアの侵略を受け、19世紀にロシアに併合された地域。もともとは人種、言語ともロシアとは異なる(現在のチェチェン人の多くはロシア語も話す)。併合後、現在にいたるまで、石油、農畜産物、兵役など、ロシアが必要とするさまざまな資源の供給源となってきた。

 1991年11月、チェチェン出身のジョハル・ドゥダーエフ空軍少将を中心とするチェチェン民族会議が、ソ連邦からの独立を宣言した。そ れ以来、チェチェンは事実上の独立状態にある。この独立運動は、長年の植民地支配に対する異議申し立てだったが、94年にロシア軍が武力侵攻で応じたため、戦争(第一次、第二次チェチェン戦争)となった。この戦争で、およそ100万人のチェチェンの人口のうち、8万人から10万人が死亡したと言われている。

 96年にいったん戦争は終わった。このとき結ばれた「ハサブユルト和平合意」では、チェチェンの独立は5年後の2001年にふたたび検討されるはずだったが、99年にロシア側は合意を無視し、二度目の武力侵攻(第二次チェチェン戦争)を開始した。前回以上に無差別かつ大規模な、チェチェンの民間人への攻撃が続いており、隣国のイングーシ共和国では、当初25万人、現在も5万人のチェチェン人が難民生活を続けている。親ロシア派、独立派が共に認める数字によれば、94年以来、10年間つづいているこの戦争の死者は20万人以上にのぼり、その多くは民間人である。

 この戦争を続けているために、 チェチェンはもとより、ロシア国内もさまざまな混乱に見舞われ続けている。 チェチェン側による、市民を巻き添えにする自爆攻撃だけでなく、 ロシア政府・情報機関が関与していると見られる「テロ」も相次ぎ、 チェチェン問題を利用したロシア連邦の中央集権化も進められている。

チェチェン戦争の原因

 くりかえしチェチェンで戦争が起こる理由はいくつか挙げられる。

 1.ロシアの政治状況が、チェチェン戦争を必要としている。
エレーナ・ボンネル女史(反体制物理学者サハロフ博士の未亡人)は、こう証言している。「第二次チェチェン戦争が勃発した主な原因を探るには、まず、現在のロシア政治情勢を理解しなければならない。第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。今回の戦争は、エリツィン大統領が自ら選んだ後継者として公に支持する、ウラジーミル・プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている(米上院議会での証言)戦争の結果、1999年の大晦日にエリツィン大統領は辞任してプーチン代行にその地位を譲り、大統領経験者の不逮捕特権を手にした。

 チェチェン戦争は、戦争を必要としているロシアの軍部・情報機関を中心とする政治勢力「シラビキ(力の人々=武闘派)」が主導している。彼らの利益は、チェチェン戦争に参加することによる合法・非合法の恩典によるものだ。これには戦争および復興予算の着服、現地での違法な石油密売への関与、チェチェン独立派への武器の横流し、現地住民の拉致と金銭による釈放(=営利誘拐)などが挙げられる。

 2.ロシア国家の統一の維持
北コーカサスには、チェチェンのほかにダゲスタン、イングーシ、北オセチア、カバルディノ・バルカリア、カラチャエボ・チェルケシアなどの民族共和国があり、チェチェンの独立が他の国々のロシアへの離反につながると、ロシアの国土の一体性が失われることが、ロシア連邦側の主張の一つである。しかし、1991年以来独立を主張したロシア連邦構成共和国はチェチェンとタタールスタンだけであり、すべての地域にチェチェンのような動きが出ることは考えにくい。

 また、ロシアが、チェチェンを侵略によって獲得したことは歴史上あきらかであり、この地域の人々が民主的な手続きを経て独立を選んだ場合に、ロシア連邦側は、これに反対する資格を持たない。

 3.石油資源
イランとトルコが近く、軍事上の緩衝地帯である。資源面から見ると、チェチェンで原油を産するほか、カスピ海のバクー油田からのパイプラインが領内を抜けているため、ロシア側としてはチェチェンを自国のコントロール下に置きたい。

強制移住

 コーカサス地域は、16世紀のイワン雷帝による侵略以降、帝政ロシア、ソビエトロシアの時代を通して植民地にされてきた。このコーカサスの山岳民のなかで、チェチェン人は、随一の独立志向を持つ。これが災いして、1944年2月、独ソ戦争のさなかにチェチェン人、イングーシ人がほとんど一夜にしてカザフスタンへ移住させられた。このとき、50万人ほどのチェチェン人が、流刑地からチェチェンに戻った時には半減していたと言われる。現在のマスハドフ大統領らの世代は、流刑先のカザフスタンで生まれた。

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第一次チェチェン戦争

 1991年のソ連邦崩壊の際、多くの連邦構成共和国が独立を宣言した。北コーカサスのチェチェン共和国でも独立の機運が高まり、同年11月、ジョハル・ドゥダーエフ退役空軍少将を中心とするチェチェン民族会議が独立を宣言した。これに対し、トルコ・イランに近いコーカサス地域の防衛、カスピ海からの石油パイプラインの確保という思惑のため、ロシアは猛反発した。政治的混乱が続いた末の94年12月、ボリス・エリツィン大統領(以下の役職名はすべて当時)の命令により「憲法秩序の回復」のために連邦軍が投入され、「第一次チェチェン戦争」が勃発した。

 すぐにゲリラ部隊を中心としたチェチェン軍の抵抗が始まり、1年半の戦闘の末、ドゥダーエフ大統領は戦死(衛星電話を使ってロシア議員と交渉しようとしたところをミサイル攻撃された。爆弾という説もある)。一方ロシアでは、徴兵された若い兵士たちが、ほとんど訓練もされずにチェチェンに送り込まれ、大きな犠牲が出た。また、当時のメディアが戦争に批判的だったために、ロシア国内の厭戦気分が高まった。ロシア安全保障会議のアレクサンドル・レベジ書記と対ロシア交渉派のアスラン・マスハドフ総参謀長による和平交渉が行われた。この時結ばれた「ハサブユルト和平合意」(ダゲスタンのハサブユルトで結ばれた)により、96年8月31日に戦争は終わり、チェチェンの独立問題は2001年まで先送りされた。


戦間期

 1997年2月、欧州安全保障機構(OSCE)、市民平和基金などの監視のもと、初のチェチェン共和国大統領/議会選挙が行われ、第一次戦争中に参謀を務めたマスハドフ氏が64%を得票して当選した。大統領就任後のマスハドフ氏はチェチェンの自立を追求してアメリカ、アラブ諸国などを外遊すると同時に、ロシアとの対等な関係作りを試みるが、難航。誘拐などの犯罪の横行 により、国際機関の撤退も相次いだ。国内の各勢力の統合にも失敗したが、内戦だけは回避した。


第二次チェチェン戦争

 99年春、チェチェンとロシアの定期会談がストップ。8月7日、チェチェン政府の統制を離れた野戦司令官のシャミーリ・バサーエフハッターブ隣国ダゲスタンに侵攻した。これと並行して、8月31日から、モスクワなどの都市では大規模なアパート爆破事件が続発し、ロシア政府はすべてチェチェン人の犯行で、犯人たちはチェチェンに逃亡したと発表した(しかしすぐに破壊された建物は撤去され、今にいたるも犯人は明らかになっていない)この二つの動きを受けて、9月23日、ロシア政府は「テロリスト掃討」のため、再びチェチェンへの空爆を開始した。「第二次チェチェン戦争」である。

 緒戦はロシア側の勝利が続いた。追い風を受けてエリツィンは大統領経験者の不逮捕特権を手に辞任、ロシア連邦保安局(FSB)の元長官、ウラジーミル・プーチンが大統領に就任した。その後はゲリラ戦と、ロシア軍および親ロシア派に対する爆弾攻撃が、これに対抗するロシア軍の「掃討作戦」などが続き、泥沼化している。

 2002年8月には、ロシア世論が停戦に傾いたことを反映し、ロシアとチェチェン双方の政治家たちによる非公式の会談が活発化した。また、2005年2月には、ザカーエフ・チェチェン共和国文化相(独立派)とロシア兵士の母親委員会のワレンチナ・メーリニコワ代表による、非公式の「対話」が、欧州議会ロンドン事務所で行われた。

 しかし、和平のための話し合いが起こると、ほぼ確実にそれを挫こうとする事件が発生する。たとえば、 2002年11月にはモスクワ劇場占拠事件が発生して対話は流れ、05年2月には和平交渉を訴えていたチェチェン共和国のアスラン・マスハドフ大統領(独立派)がロシア軍によって暗殺された。

 なお、本稿では91年の独立宣言によってロシア連邦中央との紛争状態に入ったと考え、その後を「チェチェン紛争」と呼ぶ。独立宣言以降、ニ度戦争があった ので第一次チェチェン戦争、第二次チェチェン戦争と呼ぶ。なお1500年代のイワン雷帝が開始した南東進出政策以降の恒常的な武力衝突は「コーカサス戦争」 と呼ばれている。

ジェノサイド

 1999年9月以来、ロシア、チェチェン両軍の間で激しい戦闘が続き、チェチェンの首都グロズヌイは無差別爆撃よってほとんど廃墟となっている。 もっとも憂慮されるのは、ロシア軍によるチェチェン市民への攻撃と、人権抑圧、ジェノサイドである。これは主に「掃討作戦」と呼ばれており、ロシア側が「テロリストを匿っている」と判断した村落を包囲し、住民のうち10歳から60歳代にいたる男性をすべて拘束して尋問を加え、場合によっては逮捕者の多数を殺害するというものである。ダチヌイ村では51人の民間人の死者が発見された事例があり、アメリカの人権NGO、ヒューマンライツ・ウォッチが詳細に報告したほかにも、多数の同様の事例が報告されている。

 2005年2月24日、ロシア連邦も加盟している欧州人権裁判所で、チェチェン戦争によるチェチェンの民間人の被害が、ロシア軍の攻撃によるものだとして、賠償を命じる判決が下りた。これは99年の、第二次チェチェン戦争開戦当時の民間人殺害や財産の損壊に関する数件の訴訟で、最終的にロシア側はチェチェン人の原告たちに賠償金17万ユーロ(2400万円程度)を支払った。

誘拐について

 96年―99年の戦間期に、チェチェンでは誘拐事件が相次いだ。ロシア軍の侵攻を跳ね返したものの、チェチェンの物理的・経済的インフラが破壊された状態のままで、失業が蔓延していたためである。多くのチェチェン人、ロシア人、少数ながら外国人が誘拐されて身代金を要求された。

 99年に第二次チェチェン戦争がはじまった当初、日本のマスコミ、NGOには、在日ロシア大使館から「チェチェン人による人質殺害の現場」とされるビデオテープが何度か届けられた。筆者もその一部を見たが、チェーンソーによる首斬りなど、言葉にするのもはばかられるような残酷な内容だった。

 戦間期は、エリツィン政権の最後の時期にあたる。ロシアの政商ベレゾフスキー(現在、イギリスに亡命中)によると、彼は「エリツィン大統領の命令で、チェチェンに行って誘拐事件の解決にあたった」という。具体的には、多額の身代金の立て替えをしていた。

 ベレゾフスキーの「立て替え」は、チェチェンの誘拐禍をさらに加速させた。 外国人誘拐が唯一の産業とまで言われるようになったのである。また、ベレゾフスキーは復興資金として、バサーエフなど、マスハドフ政府から離反した野戦司令官に金を渡していたことを認めている。誘拐犯と野戦司令官たちへの資金提供は、チェチェンの混乱をさらに助長させた。

「テロとの戦い」の文脈におけるチェチェン問題

 2001年9月11日以降、ブッシュ政権が「テロとの戦い」を掲げ、世界を「テロに反対する国々」と、「テロを実行し、支援する国々」に二分しようとしたときに、チェチェンはその境界線上に置かれることになった。つまり、「抑圧されている少数民族」と、「分離主義のテロリスト」の二種類のレッテルを、その時に応じて貼り替えられることになったのだ。ロシアのプーチン大統領はいちはやくブッシュの「テロとの戦い」への支持を表明した。その結果としての中央アジア諸国とグルジアへの米軍駐留も呑んだ。チェチェンを「対テロ戦争」の一部に位置付けることで、重度の人権侵害に対する欧米からの批判をかわすためである。

 一方、アメリカ政府は、2003年2月、マスハドフら独立派中の主流派との交渉のオプションを残しつつ、チェチェン独立派の一部の部隊(シャミーリ・バサーエフら)に対して「テロ組織」というレッテルを貼ってロシアに歩調をあわせた。しかし、テロリストに指定されたバサーエフは、もともとロシア側とつながりのある人物である。

マスハドフ政権とその終焉

 第一次チェチェン戦争後の97年に選挙によって樹立された政権。 この選挙は欧州安全保障協力機構(OSCE)などの選挙監視を受け、 民主的な選挙が実施されたとして、国際的な承認を受けた。また、ロシア政府も承認した正式なチェチェンの 政府である。大統領のアスラン・マスハドフは元ソビエト陸軍の砲兵大佐である。99年の二度目のチェチェン侵攻以降、 ロシア側はマスハドフ政権に対抗して、親ロシア派の宗教指導者である アフメドハッジ・カディロフ行政長官を首班とする臨時行政府を設置した。 このカディロフ行政長官は2003年10月の選挙で「大統領」に選出されたが、 2004年5月にグロズヌイで爆殺された。その後は同じ親ロシア派のアルハノフ内相が大統領に就任した。

 マスハドフ政権はロシア政府に対し和平交渉をよびかけ、 アメリカ政府やOSCE、欧州評議会などが「チェチェン紛争の政治的解決」をロシアに要求する場合、 その交渉相手は第一にマスハドフを指した。 プーチン政権は99年にチェチェン戦争を開始した時点で、「マスハドフは大統領として認めない」 という立場を示したが、これには具体的、法的な根拠がない。

 アスラン・マスハドフは、2005年3月9日、ロシア軍特殊部隊に暗殺された。 ここではその背景と意味を述べたい。

2月2日、マスハドフ大統領が、チェチェン側部隊に対して、ロシア軍に対する一方的な戦闘行動の停止を命じた。同時に、コメルサント紙のインタビューで、マスハドフは、この停戦がロシアを交渉に呼び込むための「善意の表明だ」と語る。これに対してプーチン政権側は何も反応しなかった。逆にコメルサント紙に対して「テロリストの発言を報じた」などと警告する。停戦は、予定どおり2月22日まで続いた。停戦のねらいは、チェチェン側のゲリラ部隊のすべてがマスハドフに従っていると、ロシアと国際社会に示すことだった。実現すれば、交渉当事者としての資格が証明される。事実、これに呼応して、ロシアのNGO「兵士の母親委員会」のメリニコワ委員長らが、マスハドフの代理人であるザカーエフ文化相と、ロンドンの欧州議会代表部で会談した。これにかかった費用は、欧州議会が負担した。ここで「チェチェン戦争に軍事的解決はありえない」と明記した合意文書「チェチェンにおける平和への道」が採択されている。

 民主的に選挙されたマスハドフ大統領が和平交渉を提起していたのは、ロシア側にとって頭痛の種だった。ロシア政府には、国際機関や西側各国政府と市民団体からの圧力が常にあった。そこから逃れるためには、 マスハドフを消すしかなかった。

 マスハドフの死のあと、アブドゥルハリム・サドゥラーエフが新大統領となり、首相を兼任すると発表された。副首相にはロンドンのアフメド・ザカーエフと、野戦司令官のシャミーリ・バサーエフが任命された。この人事についての考察はチェチェンニュース Vol.05 No.23 2005.09.04を参照のこと。

(2005.11.30 大富亮/チェチェンニュース)