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チェチェンニュース
Vol.01 No.08 2001.06.09

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■「ロシアは死者を呼び招かず」 アナトーリー・プリスタフキン

ロシア文化通信「群」 第16号 2000年7月15日より転載群像社webサイト:http://gunzosha.com

●記事について

ロシアの作家プリスタフキンは、第二次大戦中に強制移住させられたチェチェン民族の悲劇を『コーカサスの金色の雲』(三浦みどり訳群像社刊)に著している。

1920年代、反革命勢力を取り締まっていたウリツキー(反革命・サボタージュ取締り全ロシア非常委員会議長)が暗殺されたのを機に、テロルの嵐が吹き荒れた。当時の赤色テロルと、現在のロシアによるテロル(チェチェン民族抹殺)を重ねたこの記事は興味ぶかい。

さらに、「おそまつでご機嫌取りのわが国の文化人」というくだりは見逃せない。ロシアの文化人たちはチェチェン進攻に賛成し、なかば手を貸している状態だからだ。

早春、パリの亡命ロシア人の墓地を訪問したプリスタフキンは、48年前に世を去った文人イワン・ブーニン(*1)の記憶と、チェチェン戦争の泥沼にある現在のロシアの間を往復する.(林克明 ジャーナリスト)

●亡命者たちの墓

空は青く、ぽかぽか春めいた陽射しのもと、パリ近郊の有名なロシア人墓地サン・ジュヌヴィエーヴ・デ・ブアの砂利を敷いた並木道は人気も無く閑散としていた。少し離れたところには巨大な木々がそこここに雑然と横倒しになっている。倒れざま根っこで古い墓石を持ち上げてしまったところもある。

大理石や木の十字架の陰から癖のあるロシア語を話す婦人が現れた。私たちの小さなグループに墓地の案内をしてあげようと彼女は言った。

その女性は旧世代のロシア人亡命者たちの困窮ぶりを、墓守りのお金にも事欠くことをすぐに話し始めた。「この地でたくさんのロシアから追放された者たちが最後の安息の地を見出していたのに、親類も死に果て、墓は放ったらかし、若者たちはこういうことにはそっぽを向いている」と。彼女があまりにまくしたてるので、私はさりげなく一団からはずれた。そして、ほとんどすぐにヴィクトル・プラトーノヴィチ・ネクラーソフの墓に行き当たった。

まだヤルタにいた頃の彼を、そこに小柄で物静かな、人中にあることを決まり悪がっているような老婦人の母親と一緒に来ていた彼を思い出す。

彼が母親の世話を焼く様子には心を打つものがあった。ネクラーソフは嘘と暴力を決して許せない数少ない作家の一人だった。『スターリングラードの塹壕にて』という小説には戦争の過酷な真実が語られており、心底私たちの胸を打った。キエフのKGBが彼の家宅捜索を行なうと、彼は抗議の標にロシアを捨てる決心をして、最後の日には我々はコーペレフの家に立ち寄りそこで彼を見送ったのだった。

●沈黙する作家たち

トーリャ・グラジーリン(*2)の話では、すでに晩年のネクラーソフがパリの病院でコーカサスとチェチェン人について書いた私の小説を読んで評価してくれていたという。そのヴィーカ(友人達は彼をそう呼んでいた)が現在チェチェンで行われている殺戮を知ったら何と言うか、想像にかたくない。現在のわが国の同僚たちと違って、沈黙を守りはしないことは確かだ。もっとも、極めて稀ではあるが抗議の声が上がってもいる。

作家のアレクサンドル・ヴォロージン(*3)は「トリアムフ(勝利)」文学賞の授賞式で次のように言っている。記憶に頼って引用する。「この小さなチェチェンという民族にどうしろというのだ? 我々と同じような奴隷になれとでも?」

ワシーリ・ブイコフ(*4)も「我々が今チェチェンでやっていることを数年先には恥じることになるだろう…」と言った。しかし、これらの発言に注目した新聞は一つも無かったようだ。

イワン・アレクサンドロヴィチ・ブーニンの墓はその独特な形の十字架ですぐに分かった。これに似た石の十字架をノヴゴロドやトヴェーリの先祖たちは境界の地に建てていた。ここにもひとつの標を見る。ブーニンは彼自身が境界の人である、銀の時代の去りゆくインテリゲンチヤとそれといれ代わりに到来した新しい、いわゆるソヴィエト時代のインテリゲンチヤとの。

「どうして我々はボリシェヴィズムと妥協できないのか?」とブーニンは書く。

「もっとも卑劣な血にまみれた時代といえども、これほどまでに下劣で、虚偽に満ち、悪辣、専横的な活動は人類の歴史上無かったと私は確信している…」。

●ロシアの崩壊、そして、人間の崩壊

おそまつでご機嫌取りのわが国の文化人たちは十月革命の直後からソヴィエト政権の肯定的なイメージをでっち上げ始める。そのうちの一人は社会主義リアリズムの創始者として当局に祭り上げられた。そのゴーリキーにブーニンは多くの苦々しい言葉を捧げている。

「何の巡り合わせか、彼の影響力は大きかった。とても有名だった彼が公然とボリシェヴィキ側につくようになり、『ヴラジーミル・イリイチ(レーニン)』と、ペテルソンと、ジェルジンスキーと力を合わせて熱心に働き、ソヴィエト政権を賛歌したことがどれほど沢山の人たちを惑わせたか思い出してほしい。ウリツキーの殺害の後、ペテルブルグの『クラースナヤ・ガゼータ』の証言によれば何の罪もない人たちが一晩のうちに『ちょうど一○○○人』殺されたその時、ゴーリキーが『中央執行委員会』の盛大な集会の議長を勤め、ボリシェヴィキが『ロシア・インテリゲンチヤのソヴィエト権力との和解』というプラカードをペテルブルグの街中に掲げたのも理由のないことではなかったのだ」「何が起きてしまったのだろうか?」ブーニンは問う。そしてこう答える。

「ロシアの全面的崩壊、引いては人間というものの崩壊が起きてしまった…」人間というものの崩壊、おそらくそれがブーニンがロシアについて言ったことのポイントだった。最高級の人間、インテリのモデルを示したのはまさにイワン・ブーニンその人だったのだから。それにひきかえ、闇の力に仕える者達は…いわゆるテロ行為(ウリツキーの殺害)の報復として何の罪もない人々が千人も殺されたと言えば、何か思い当たらないだろうか?そう、我々もまた「テロ行為があった」として(誰がモスクワの住宅を爆破したのかは不明なのに)続けざまの殺戮をもって、いや、今度は既に千人を越える命の殲滅をもって報復しているのだ。これは一つの民族の抹殺ともいえる!

そしてゴーリキーの跡継ぎたる現在の文化人たちは全員一致でこの大量殺戮を支持している。それどころか取締り当局と「力を合わせて熱心に働く」ことでますます奮い立っている。なぜならそうしない者たちは「その他の人」であり裏切り者と言うわけだ。

「世界は苦悩するロシアに背を向けてしまった」とブーニンは言う。「世界は磔にされた者の唇に酢水を染み込ませた海綿を与えようとしたローマの兵隊を倣ってみただけだったのだ・ことロシアのこととなれば直ちに不干渉の原則を思い起こし、ロシアの『国内問題』を平然と眺めている…ロシアで続いているポグロム(虐殺、略奪)を…」

さらに進むともう一つの墓がある。メレジコフスキー(*5)とジナイーダ・ギッピウス(*6)の墓だ。彼女はその日記に書いている。「私たちは動かず、声もたてない、私たちは(我が民衆とともに)人と言う名にも値すまい、しかし、私たちはまだ生きている、そして知っている、知っている…」更に国外追放となりここで悲劇的な死を迎えたサーシャ・ガーリチ(*7)がいる。

「オーイ! 立ち上がれ、ろくでなしめら。血液は水じゃねえんだ、ロシアがその死者たちを呼び招いているからには、災いが起きていると言うことなんだ…」。それに続く予見的な言葉「我らは立ちあがってみたが、『間違いでした、お呼びじゃなかった…』と理解する」いや、今、ロシアはその死者たちを呼び招いてはいない…

(翻訳 三浦みどり)

*1) イワン・アレクサンドロヴィチ・ブーニン:(1870-1953 詩人、短編作家)1933 年のノーベル賞を受賞.この記事を掲載した群像社はブーニン作品集全5巻の刊行を予定している.*2) トーリャ・グラジーリン:1935年生,作家.76年に西側に移住*3) アレクサンドル・ヴォロージン:1919年生 日本でも公開された「5つの夜に」(ミハルコフの監督作品)のシナリオが有名。*4) ワシーリ・ブイコフ:ベラルーシの作家。作品「死者に痛みはない」が邦訳されている.*5) メレジコフスキー:(作家・宗教思想家.1866〜1941)*6) ジナイーダ・ギッピウス:(女流詩人.1869〜1945 メレジコフスキーの妻)*7) サーシャ・ガーリチ:亡命ソ連人の詩人.1960年代ころよりシンガーソングライターとして知られる.

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