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チェチェンニュース
Vol.03 No.06 2003.02.22

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■われらの心に宿る「無関心の闇」をめぐって

姜 信子/作家・熊本学園大学非常勤講師

<記事について>

明日、2月23日は旧ソ連邦の赤軍記念日だ。1944年のこの日、チェチェン・イングーシ共和国から、50万人の人々が、ソビエト政権からナチスドイツに協力したという疑いをかけられて、カザフスタンに強制移住させられた。飢えや劣悪な環境により、そのうち半数が死亡したといわれている。

現在のチェチェン戦争で、ロシアと戦い、かつ交渉を続けているマスハドフ大統領らの世代は、流刑先のカザフスタンで生まれた。チェチェンとロシアとの歴史のなかでも、際立って悲惨なこの事件を知らずに、チェチェン問題を理解するのは難しいだろう。

今回取り上げるのは、カザフスタンを訪れた在日韓国人の作家が語った、相当に鋭い論考である。語り手の姜信子は、北朝鮮による拉致事件−韓国の民主化に伴う若者の犠牲の意味−カザフスタンで出会った「荒野の狼」−これらに共通する「辺境」と私たちの関係について考察する。そして、民族同士の対決ではない、もうひとつの解決の可能性を、1冊の本に探っていく。(2003.02.22 大富 亮/チェチェンニュース編集兼発行人)

●素朴な疑問

私の素朴な疑問からお話したいと思います。北朝鮮による日本人拉致事件に関しての、現在の日本国内の空気についてです。

今、日本国内には、北朝鮮への憤りが渦巻いています。北朝鮮という「国家」が、何を目的としたものだったのかいまだつかみかねるのですが、ともかくも何らかの明確な目的を持って、人間をモノのように運び去っていた。それに対して、誰もが憤りを感じるのは、実にもっともなことでしょう。

その一方で、拉致されていることがわかっていたにもかかわらわらず、今の今まで有効な手を打たなかった、つまり、本腰にはならなかった日本政府に憤らないのは、なぜなんでしょう?

ずいぶん前に、あの人たちがすでに拉致されているらしいと分かっていながら、「鹿児島の吹上浜や日本海側の海岸に行くと拉致されるぞ」なんて、日常会話の中で口にしながら、なぜに私たちは、拉致されたご本人たちが目の前に姿を現わすまで、いきなり肉親が行方不明になった家族の方々や、その方々と近しい人々と怒りや悲しみを共有できなかったのでしょう? どうして拉致の真相を明らかにして拉致された方々を救い出すよう、力を合わせて政府に働きかけることを思いつかなかったのでしょう?

私には、現在の拉致された方々とその家族の不幸は、主犯の北朝鮮という「国家」、従犯の日本という「国家」、そして、日本という「国家」に暮す私たちの想像力の欠如による「無関心」によって大きく深いものになったように思えてならない。そして、「無関心」の一角を確実に担っていた自分自身に対する忸怩たる思いをぬぐうことができない。

こんなことも考えたりします。北朝鮮という「国家」がひき逃げ犯なら、日本という「国家」は、「このまま放っておけば命に関わるよね。でも、この件に関わるとちょっと厄介で難しいことになるよね」と逡巡しながら、路上に横たわっている負傷者を横目に行きつ戻りつしていた後続車、そして私たちは、その動きを「きっと誰かが通報したはず、きっとそのうち救急車が来るはず、われわれも事故に巻き込まれぬよう、気をつけなくちゃねぇ」と、通り過ぎたり、遠巻きに見て、ささやききあっていた通行人。

あるいは、こんな素朴なことも考えました。「国家」と「国民」の関係において、「国家を愛すること」ばかりがやたらと強調される今日この頃ですが、「国民を愛すること」が、もっと強調されてもいいんじゃないだろうか。いや、「国民」に限らず、「人間」をいとおしむということが、もっと真剣考えられてもいいんじゃないか。「人間」をいとおしむ人々の集合体としての「国民」があり、その「国民」によって構成されている「国家」であれば、自然と私たちはその「国家」を愛するのではないだろうか。

こんなうがった考えも湧いてきました。「国家」に愛された経験を持たない「国民」は、「国家から愛される」という概念そのものを持たないから、愛されていないことに対して無感覚になってしまうのだろうか? 北朝鮮への憤りが渦巻く日本で、今、私は自分の中に、こんなさまざまな思いや疑問を抱え込んでいるのです。

●「自爆テロ」に思うこと

−80年代韓国の記憶−さて、ここからが本題です。 今日は、チェチェン人による「モスクワ劇場占拠事件」などを受けて、私が中央アジアで経験したことをお話したいのです。

アメリカを中心に、それぞれを外憂内患を抱え込む大国が連携した情報のネットワークの中で形作られた9.11以来の「対テロ戦争」の文脈の中に、はめ込まれがちなこの事件。私には、このような命がけの、現在の世界で俗に「テロ」と呼ばれている事件、たとえば、日本でもよくニュースで報道されるパレスチナ人による「自爆テロ」にしても、その報道を目にするたびに想い起こす、80年代韓国の光景があります。

若い学生諸君には、韓国に対して、ワールドカップを日本と共催する、豊かで自由な国というイメージくらいしかないのかもしれません。しかし、韓国はほんの十数年前のソウルオリンピック前夜までは、軍事独裁政権と民主化を求める人々との間の激しい闘いの場でした。

民主化闘争の主な担い手は学生や知識人でしたが、闘争がもっとも激しくなった1987年には、一般市民も、息子であり娘であり兄弟である学生たちへと合流していき、ソウルの街をおおう全市民的な闘争となって、遂に全斗煥政権を退陣に追い込みました。それは世界注視の中での出来事でした。

とはいえ、それ以前、韓国は30年にもわたって軍事政権下にあり、1970年代より、朴正煕政権の下でますます激しい民主化闘争への押え込みがあったのですが、韓国のようなアジアの片隅の出来事なんて、先進国によって形作られている国際的な情報ネットワークの中では、重要で大きなニュースとして取り上げられることはそうそうなかった。韓国における民主化闘争などは、世界の関心事ではなかったということです。

そんな状況の中で、世界に向けてメッセージをなんとか伝えようとするならば、いったいどうすればいいのか? 放送局や新聞といった国内のマスメディアは、軍事政権がしっかり統制しています。光州事件の後に政権の座に就いた全斗煥が最初に行なったことは、放送局の統廃合によるマスメディアの統制でした。

韓国のマスコミから外に送り出される情報は、すでに政府によって厳しく選別されている。となると頼みの綱は外国のメディア。しかし、世界の関心事の外に置かれている者たちが、外国メディアにその存在とメッセージをアピールしするためには、どうしたらいい?

80年代、私が日本で見たのは、私と同世代の大学生がガソリンをかぶって焼身自殺をするショッキングな映像でした。命と引き換えにメッセージを送り出そうとする、覚悟の自殺です。韓国の名門大学のひとつ、延世大学では、学生の抗議の投身自殺防止のために、建物にネットを張ったほどだといいます。そこまでしないと、韓国の反体制側の民主化闘争の担い手の声など、なかなか外の世界に届かない。

「われわれはここにいる! ここでこうして闘いながら生きているわれわれに、目を向けて欲しい! あなたがたの関心こそが、われわれの力になる。われらに力を!」それが、彼らの命と引き換えのメッセージです。

さて、1987年に全斗煥自身が、かつて80年に光州でしたように、一般市民に銃を向けて、力ずくで民主化闘争をねじ伏せることができず、それどころか民主化を約束して退陣せざるをえなくなったのは、命がけのメッセージが勝ち取った成果?それとも一般市民までもが参加した闘争の広がりの賜物?

もちろんそのどちらも、民主化の実現にとってはかけがえのないものでした。でも、民主化闘争の過程での「死」や闘争の「広がり」が、初めて世界の注視の的になったのは、1987年という時期が、ソウルオリンピック前夜だったからというのが、非常に大きな要因です。

「いったいこの状況で韓国は翌年に迫ったオリンピックを開催できるのか?」と、世界が実に大きな関心を韓国の民主化闘争に寄せたのです。世界注視の中で、国家の威信をかけたオリンピックを成功させるしかない軍事政権は、民主化へと向かわざるを得なくなったのです。あの当時、世界が韓国に関心を持ち、韓国の情報が世界へと流れていくことで、どれだけの若い命が救われたことか! 裏を返せば、今でも、世界のいたるところで、無関心の中でどれだけの命が失われていることか・・・。

私たちの無関心は、知らず知らずのうちに人を死に追いやっている。視線を集め、関心を呼び起こすために「死」という究極の選択にまで追い込まれていく人々がいる。自分の命と引き換えに、みずからが生まれ落ちた共同体に命を吹き込もうとする人々がいる。 この世界の中の「無関心の空間」、この「辺境」に、人は、たまたま、生れ落ちてしまうものです。

それは、私や学生諸君が、たまたま、全世界に向けて情報を発信できるメディアを手にしている者たちがそのメディアを通して形作る情報空間に生まれおちただけであるのと、「たまたま」という点では変わりはありません。たまたま、私はこちら側に生まれ落ちたけれど、もしかしたら、たまたま、あちら側に生まれ落ちていたかもしれない。だからこそ、想像してみましょう。あちら側、「辺境」の生を。

この世界の中の「無関心の空間」に生きる人びとは、こちら側の人間にとっては、存在していないに等しい。存在していない、つまり、生きながらすでに死んでいるのと変わりはない。その人びとが、自分たちがそこにいることを訴えるために命を投げ出す時、あるいはそれ以前に、世 界の無関心の中で進行している戦争や暴力や飢餓の中で死んで行く時、彼らは二度死んでいる。私たちは、二度、彼らの死に手を貸しているのです。

たまたま、こちら側に生まれた私たちは、それが「たまたま」であることを噛み締め、私たちが知ることのない「無関心の闇」が、この世界の辺境を包み込んでいることへの想像力をけっして失わずにいたい。「無関心の闇」の中から送り出されてくる、どんな小さな声にも聞き耳を立てていたい。そして、聞き届けた声には、できるかぎり、どんなささやかなことでも、行動で応えていきたい。

なぜなら、「無関心の闇」に対する私たちの想像力、その闇の中に生きる人々への関心、彼らの声に対する応答こそが、彼らの存在を確かなものとし、彼らが生き抜く力となるのですから。そして、私たち自身もまた、いつ「無関心の闇」に封じ込められるかわからない存在なのですから。

そう、北朝鮮に拉致された方々も、たまたま、こちら側から、長きにわたって「無関心の闇」の中に封じ込められてしまった存在であること、今日の本題であるチェチェンの人々もまた、同様に、「無関心の闇」の中の住人であること、この世界には大小さまざまな「無関心の闇」が口をあけて待っていること、その「無関心の闇」とは、実は他ならぬ私たち自身が生み出していること。だからこそ、私たちが人間とその人間たちが生きている世界とに向き合う姿勢ひとつで、その闇は大きくも小さくも、増えも減りもすること。そのことを、忘れずにいたいのです。

●「荒野の狼」との約束

さて、私にとっては、この授業の場は、私が「荒野の狼」との間で交わした約束を果たすための場の一つです。知ってしまった人間としての責任を果たすための場であり、同時に、私にとっていまだ答えが出ないことを、この場を共有している皆さんと共に、考えようという場でもあるのです。

私はこの場でみなさんに問いを投げかける。その問いを受け取ったみなさんのひとりひとりに、自分なりに、それを考えて欲しい。再三、言ってきたことですが、この場は私が皆さんに「答え」を差し出す場でなく、「問い」を投げかけ、その「問い」を共有し、やり取りを重ね、考える場なのです。

「荒野の狼」との約束の話とは、2000年の夏の忘れがたい記憶でもあります。2000年夏、私は高麗人の百年の流浪の記憶を追って、中央アジアへと旅をし、カザフスタンのウシトベという土地の荒野にたどりつきました。

真夜中でした。流れ星がひとつ、ふたつ、落ちていきます。空は星々でまぶしいくらいなのに、地上は気をつけないと魂を持っていかれそうな深い闇。遥かかなたに、点のような人家の明かりが見えるだけです。

六十三年前の、もう冬が始まろうとしている時期に、この闇の中に、ロシア極東から列車で連れてこられた高麗人たちが放り出され、その半数近くが死んだと伝え聞いていたからでしょうか、鳥肌が立ちました。何一つない荒野に放り出された高麗人たちが、中央アジアの荒野の夜の寒さを堪え忍ぶために、女子どもを真ん中において、男たちがそのまわりをぐるりと取り囲み、人間の山を作ったのだという話を思い出し、その光景がいま目の前に見えるようで、夏でも肌寒い荒野で心底震えました。

翌日、砂も草も空気も人もすべてが赤く染め上げられる夕暮れ時に、ふたたび同じ場所に立ちました。東には緩やかな丘、西には小さな川が流れています。その間に広がる砂混じりの荒地。目を奪うのは、川辺の、天に向かって燃えあがるように伸びる二本の木。かつて、追放の生活の始まりに高麗人が植えた小さなポプラの苗木の、六十年後の姿です。

高麗人たちが家を建て、荒地を田んぼにかえ、子どもたちを生み育てている間に、木も大きく育ちました。木陰は大人たちの農作業の休息の場となり、子どもたちの川遊びの基地となりました。やがて成長した子どもたちは都市に出て行き、あとを追うように親たちも都市へと向かいました。そして、川辺には、そのすべてを見てきた二本の大木が残された。

人の住まない家が崩れ落ちるのは、本当に早いものです。荒地の中で土が盛り上がっている場所は、かつて家があったところ。半壊の家も二つ。その荒涼とした風景の中に、実はたった一軒だけ、人の住む家がありました。住人は、チェチェン人。高麗人たちが出て行った後に、1985年にチェチェンから移り住んできた家族でした。

この地のチェチェン人は、見知らぬ人間をめったに家にあげないといいます。ところが、荒地で行き会ったチェチェン人の母親、幼な子を抱いたマリカは、日本から来た旅人に、彫りの深い笑顔で、こう声をかけてきたのです。 「うちでチャイを飲んでいきませんか?」

細かく柄の織り込まれた絨毯が壁にかけられた部屋。シチュー、パン、ブルーベリージャム、チャイ、そして喉を焼くウォッカ。マリカの夫、ベノには、話したいことが山ほどありました。ロシア語のわからない旅人の膝を叩いては、じっと目を見すえて訴えかけるのです。私の旅の案内役、この荒地で生まれ育ち、今はアルマトイというカザフスタンの旧都に暮す高麗人の詩人が、通訳をつとめます。

「チェチェンの民族衣装を見せてあげよう」 奥の部屋から大事に仕舞われていたチェチェンの男たちの衣装を、マリカが取り出してきました。腰の部分がキュッと締まった黒いコート、ベルト、腰に下げる剣。美しくも勇壮な民族衣装です。べノが2本のビデオを見せてくれます。1本は、チェチェンの人々が何かの行事で集まって、飲み、歌い、踊る、のどかで楽しい光景が映し出されたものでした。そして、もう1本のビデオ、そこでは、実にものものしい光景が繰り広げられていました。

それは、チェチェンのシンボルである狼が描かれた国旗の映像から始まりました。ロシアとの戦闘、血を流す市民、まだあどけない少年たちの“カミカゼ”部隊、(そう、ベノは、年端のゆかぬ少年たちを指差して、確かに「カミカゼ」と言いました)、前線で戦闘の合間に歌をうたう兵士たち。「どの民族にも歌がある。チェチェンには、チェチェンの歌がある。さあ、しっかりと聴いてくれ!」ベノが私の膝をばんばんと叩きます。

画面は一転、雪降るウシトベ駅で、汽車から降ろされるチェチェン人の集団、大きな穴に次々投げ込まれる大量の死体。それは1944年に、コーカサスの山岳地帯から、冬のカザフスタンの荒野に追放されたチェチェン人の姿でした。ソ連という国家に対する裏切りの疑いをかけられ、追放されたのは高麗人だけではなかったのです。チェチェン人、イングーシ人、カラチャイ人、カルムイク人、バルカル人、クリミア・タタール人、トルコ・メスへティヤ人、ヴォルガ・ドイツ人、ユダヤ人・・・。あの川辺の二本の木は、高麗人にはじまる中央アジアへの諸民族の追放の歴史も見ていたのです。

この追放以前、さらに時をさかのぼれば、19世紀初めより、コーカサスも中央アジアも、そこに暮していた小さなさまざまな民族が、南下してくるロシアと激しく戦いながら、次々とロシアに征服されていった場所でした。それがいかに激しい戦いであったのか。

中央アジアの制圧をテーマとして描かれた「戦争礼賛」という作品があります。荒涼とした人なき荒野に積み上げられたしゃれこうべの山。その周囲を飛び交うカラス。描いたのは、その戦争に従軍したV.V.ヴェレシシャーギン。彼は戦争を礼賛するためにその絵を描いたのではなく、告発するために描いた。それはあまりに野蛮な戦争に従軍した自分自身への告発も含み込んだものであり、彼はその作品についてこんな言葉を残したといいます。

「戦士として私は、ウズラでも撃つように人々を撃ち殺した」「過去、現在、未来のすべての征服者に捧げる」(「ロシアのオリエンタリズム」カルパナ・サーへニー著 柏書房 より重引)

このロシアによる征服戦争の際、コーカサスにおいて激しく抵抗したのが、チェチェン人でした。けっして服従しようとしないチェチェン人に対して、ロシア人が抱いたイメージとは、「おそろしいチェチェン人が・・・剣の刃を研いでいる」(レールモントフ「コサックの子守歌」上掲書よりの重引)というような詩になり、歌となり、一般のロシア人に染み込んでいきました。そして、次のような言葉もまた、チェチェン人に向けられました。

「チェチェン人は一生の間、その残忍ぶりゆえに連中を嫌っている隣人たちを略奪し、襲ってばかりいる・・・。このような悪意に満ちた人民に対処する唯一の方法は、最後の一人に至るまで駆逐してしまうことである」(ロシアの文官ズーボフの言葉 上掲書よりの重引)

そして、ロシア(文明)―チェチェン(野蛮)という図式の中で、力ずくで野蛮人を文明の中に取り込み、教化し、つまりロシア化してゆくという発想のもとにロシアが唱える「正義」は、150年前から今に至るまで変わることはなかった。 また、チェチェン人をはじめとして、ロシアに征服された少数民族が期待をかけたソ連も、帝政ロシアとたいした違いはなかったようです。

「ロシアのオリエンタリズム」において、著者カルパナ・サーへニーはこう書いています。

「ソ連の大半の歴史教科書では、非ロシア民族はロシアの一部になるまで歴史を持たなかった、とされている。その後も、ロシア史の一部となることによってのみ非ロシア民族は意義を持つ、とされた」 (同書p.248)

民族自決を標榜していたのロシア革命に期待を持って合流したチェチェン人たちは、いったんはチェチェン・イングーシ自治共和国(1936)を手にしたものの、チェチェン人のロシアへの抵抗の歴史は、スターリンの不信を買うには充分でした。チェチェンの民は、1944年には国家への裏切りを理由にコーカサスから中央アジアへと、追放され、自治共和国も廃止となった。スターリンの死後の1957年に共和国は復活されましたが、生まれた場所から切り離され、共同体をバラバラにされ、ロシア人が唱える「正義」に翻弄されつづけたチェチェンの民が負わされた「傷」は想像にあまりあるものです。 しかし、話はそこでは終わらない。ソ連解体にともなっての独立を認めない大国ロシアと、チェチェン共和国の戦争は泥沼化し、チェチェンでは数十万の人々がロシア軍の侵攻で命を失っている。

カザフスタンのウシトベの荒野で出会ったチェチェン人ベノは、私に言いました。「力の強い者が力の弱い者を痛めつける、その惨さ、その非道・・・」マリカが呟きます。 「チェチェンに住む親戚たちは、生きているのかどうか・・・」

ロシア人がチェチェン人にはりつけた、<乱暴者>、<恐ろしい連中>というイメージに憤っているべノが言います。 「チェチェンの人間は悪い人間ではない。相手が良い心を持っていれば、チェチェン人も心を開く。チェチェン人の故郷コーカサスを帝政ロシアが侵略した頃からずっと、ソ連の非道、ロシアの横暴に抵抗して、チェチェンの男たちは<狼>となって戦ってきた。われらは誇り高い狼なのだ。どうかそれをあなたの国の人に伝えてくれ」。ベノは強く強く、私の膝を叩きました。

私は<荒野の狼>ベノに、確かに約束しました。日本に戻って、あなたと出会って、聞いたこと、見たことは、必ず伝えようと。 とはいえ、ウシトベのあの荒野で、ベノの愛国心、戦う民族意識の前に戸惑っている私がいたことも、ここでは正直に言っておきましょう。「チェチェンの平和と幸福を祈って」戸惑う私が口にした、乾杯の、当り障りのがなく口当たりのいい言葉に、ベノは首を横に振り、「ロシアのために、チェチェンの幸福はない」とぽつり。それから「ありがとう」と私に礼を言うと、杯を飲み干した。その時の光景が、今も私の胸に焼きついて離れないのです。

●「コーカサスの金色の雲」

なぜ、<荒野の狼>ベノの「愛国心」、「戦う民族意識」に私は戸惑ったのだろうか。それについて自分なりに考えたことを語るために、あるロシア人作家の作品「コーカサスの金色の雲」(プリスターフキン著 三浦みどり訳 群像社)について語ろうと思います。

この物語は、1944年秋、モスクワやその周辺の孤児院から集められた5百人ほどの少年少女たちが、貨物列車に乗せられてコーカサスに向かうところから始まります。戦争の混乱の中で親を亡くした浮浪児たちが、住む人のいなくなった土地に送り込まれることになった。その記憶を今に語り伝える物語です。主人公は、双子の少年コーリカとサーシカ。この双子の片割れコーリカは、コーカサスに運ばれていく途中、クバンという名の駅で奇妙な列車を目にします。ちょっと長くなりますが、その部分をここに引用しましょう。

線路沿いにプラムの実を集めて行くと、暖房貨車の格子のはまった窓から誰かが呼んだのが聞こえた。顔をあげると見えたのは眼だ。初めは眼だけしか見えなかった。男の子か女の子のか、黒いキラキラした眼、それから口と舌と唇が、見えた。口を外に突き出して、ただひとつ「ヒーッ」と奇妙な音を発している。コーリカはびっくりして、青みがかった固いプラムを握った手を開いてみせた。「これ?」何かねだっているのは明らかだった。プラム以外に何もないんだ、これに決まっている。

「ヒーッ!ヒーッ!」声が挙がり、生気のなかった貨車の中身が突然生き返った。格子に子どもたちの手や眼や口が次々はりつき、入れ替わり立ち替わりお互いに押し退けあっているようで、その度に不気味な声のうなりは大きくなり、まるで象のお腹がグーグー鳴っているようだ。

コーリカは飛び退いて、あやうく転びそうになった。その時、武装した兵士がどこからともなく現われた。兵士は拳で車両の板壁をたたいた、強くではなかったが、声はすぐにおさまり、死のような静けさが訪れた。手も消えた。ただ、恐怖に満ちた眼だけが残った。どの眼も今は兵士に向けられている。 兵士は頭をツンとあげ、拳を見せ、慣れた様子で言い渡した。 「騒ぐな! チェチェンめ! おまえらに言ってんだ! 静かにしろ!」(「コーカサスの金色の雲」p.62)

貨車には、チェチェン人の子どもたちが積み込まれていたのですね。彼らはコーカサスからクバン駅まで運ばれてきた。そして、さらにまだまだ遠くまで、中央アジアまで運ばれてゆく。しかし、コーリカ、サーシカら5百人のモスクワ地区の浮浪児たちはコーカサスでの「何もかもふんだんにあり、腹一杯の、すばらしく楽しい平和な生活」を夢見ているばかり。貨車に積まれているチェチェンの子どもたちが、自分たちが向かいつつある夢のコーカサスからやってきたことなど知る由もないコーリカは、「奇妙な輸送列車」のことなど、すぐに忘れてしまいます。

「僕らの列車は、お互いに気付かない双子のように、そばに並んでいながら、永遠に離れ離れになってしまった。一方が北にもう一方が南に進んでいったことには何の意味もなかった。 僕たちは同じ運命で結ばれていた」(同書p.65〜66)

同じ運命? そう、同じ運命です。貨車に積まれて北に向かったチェチェンの子どもたちを待っていたのが、追放先の中央アジアでの過酷な生活の中での死であったように、南のコーカサスへと向かったモスクワの浮浪児たちの輸送列車も、死に向かって走っていたのです。それは、ソ連という国家の意思に翻弄される民が背負わざるを得なかった死の運命。

コーカサスで浮浪児たちを待っていたのは、50万人を超えるチェチェン人を力ずくで中央アジアへと追放し、チェチェン・イングーシ自治共和国を廃止したソ連への怒りと、ロシア人への憎しみでした。何も知らずに夢だけを胸にコーカサスにやってきた浮浪児たちは、チェチェンの戦士たちと、ソ連軍の戦闘に巻き込まれ、死んでゆきます。みずからの実体験をもとにこの「コーカサスの金色の雲」を書いたという作家は、この作品中で、こんな悲痛な声をあげています。

「恐ろしいことだ。あれだけいたのに、生き残ったのは私一人なのだろうか? あのまま皆消えて、分からなくなってしまったのだろうか? 種は根づかなかったということか?きっとこの作品は、空しく続けてきた私の最後の呼び掛けとなるだろう。返事をしてくれ! あの列車には五百人も乗っていたじゃないか! 一人でいいから、誰か生き残った者が聞きつけるかもしれない。というのも、私もよく目撃したことなのだが、連れて行かれた新しい土地で死んでしまった者が多かったから・・・」(同書p.36)

怒りに燃えたチェチェンの戦士の手で、サーシカは、はらわたを抉り出され、代わりにトウモロコシを詰め込まれるという悲惨な死を遂げました。そして、ひとり生き残ったコーリカは、ソ連軍から逃げてきたアルフズールという名のチェチェンの少年と出会います。コーリカはこの少年をサーシカと呼び、チェチェンの少年もその名が気に入り、ふたりは互いをソ連兵と、チェチェンの戦士から守りながら、双子の兄弟として生き抜いていくことになる。

コーリカとアルフズール、ふたりが同じ運命で結ばれていた「双子」であることにコーリカが気づく、こんな場面があります。アルフズールが、チェチェンの言葉をコーリカに教える場面です。

「パンはペーピク! トウモロコシ、ハチュカーシュ・・・・・・水はヒ・・・・・・」 コーリカは顔をしかめた。記憶に永遠に刻まれたクバン駅のあの赤錆びた暖房貨車がよみがえった。格子のはまった窓から差し出されている何本もの手、唇、訴えるような眼・・・・・・今でも耳についてはなれない「ヒー! ヒー! ヒー!」という叫び。あの子たちが頼んでいたのはこれだったんだ!

運命の双子となったロシアの少年コーリカとチェチェンの少年アルフズールは、その後、どのような人生を送ったのか? 物語は、ふたりがチェチェンの中心都市グロズヌイの、強制移住の結果としてのさまざまな民族の浮浪児たちがいる一時収容所から、またどこかの土地へと、列車に乗せられて送り出されていくところで終わります。

さて、モスクワからコーカサスに送られた経験を持つ元浮浪児のロシア人作家が書き、ペレストロイカ以前の強制移住のことを語るのがタブーであったソ連でひそかにそのコピーが出回ったという「コーカサスの金色の雲」という、ソ連の歴史の外に、つまり「無関心の闇」、あるいは「辺境」へと封じ込められていた記憶の物語から、どんなメッセージを受け取ることができるのでしょうか?

そして、ここで、あらためて、先ほどの問いです。 なぜ、<荒野の狼>ベノの「愛国心」「戦う民族意識」に、私は戸惑ったのだろうか?

対ロシアとの戦いにおいて、チェチェンが置かれている現実は、「愛国心」「民族意識」を核に力を結集させないと、とても持ちこたえられるものではない。実際、その強烈な民族意識こそが、大国ロシアを現在にいたるまで、手こずらせてきた原動力でもあります。

その一方で、こうも思うのです。ロシアという「民族」、チェチェンという「民族」の間の、「民族」対「民族」の対立の図式の中に過去の記憶をはめ込み、「民族」の物語を声高に語りつづけるかぎりは、「民族」の思考に縛られているかぎりは、未来への出口が見つからない。「民族」対「民族」という図式とは異なる、未来に向かって開かれた新たな枠組みで、私たちは記憶を語ることはできないのだろうか?

「コーカサスの金色の雲」が私たちに差し出してきたのは、ある運命を背負った「民族」の記憶ではなく、「民族」を超えて同じ運命を共有していた無名の声なき民の記憶でした。それは、力ある者が設定した「文明」対「野蛮」、「民族」対「民族」という強力な枠組みにのっとって、威圧的に語られてきた「正義」の歴史の物語から切り落とされ、それがゆえに「無関心の闇」(=辺境)に封じ込められていた記憶が、ここに確かにあるのだ、ここに眼差しを向けよと、静かに語りかけるものでした。

そう、私たちは、「文明」対「野蛮」、「民族」対「民族」という強力な枠組みが切り落としてきた記憶の存在していること、そして、「文明」対「野蛮」、「民族」対「民族」という強力な枠組みは、これからも多くの名もなき民のかけがえのない記憶を切り落としつづけるのだということに、気づいてしまった以上、もうその枠組みの内側には安住できない。

いや、そもそも、どんなものであれ、与えられた枠組みに安住するということ、そういう生のあり方自体を私たちは問い直さなければならないのでしょう。安住しない。安住することで、「無関心の闇」(=「辺境」)の存在を忘れない。常に想像力をかきたてつづける。みずからのうちに「無関心の闇」を忍び込ませない。おそらく、私たちにとって、何より大切なのは、どんな枠組みで記憶を語るかということ以上に、どんな枠組みであれ、その枠組みが切り落としているものがあることを常に忘れずにいること、これでいいのかと常に問いつづける「姿勢」なのだと思います。

 そうであってこそ、同じ運命で結ばれたロシアの少年コーリカとチェチェンの少年アルフズールの、いまだ語られていないその後の物語を、私たちは未来に向けて語りだすことができるのではないでしょうか。

(2002.11.18 姜 信子/熊本学園大学「東アジア文化論」第六回より)

関係資料:バイナフの運命: http://www9.ocn.ne.jp/~kafkas/vinakh.htm
アルフズールの部屋: http://www5e.biglobe.ne.jp/~kafkas/alfzule/
チェチェンからカザフスタンへの地図:
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kafkas/alfzule/background/mapkazakh.htm

姜 信子(きょう・のぶこ):作家・熊本学園大学非常勤講師。著書に、『ごく普通の在日朝鮮人』朝日新聞社、1987年(のち「朝日文庫」に収録)、 『追放の高麗人(コリョサラム)』石風社、2002年など。
本稿はFrances Culture Center (http://www.asahi-net.or.jp/~fw7s-kn/) より、許可を得て転載。