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チェチェンニュース Vol.04 No.01 2004.01.09

発行部数:1027部

■「協定」は忌まわしきものの名

(大富亮/チェチェンニュース)

  第二次チェチェン侵攻の目的を一言に言うと、危険な「協定」を葬ることである。1996年8月31日、ダゲスタンの村落ハサブユルトで、ロシアとチェチェンの代表が『ハサブユルト協定』を結び、この日をもって1年8ヶ月間の第一次チェチェン戦争が終わった。

 この協定の核心の部分は、こう書かれている。「ロシア連邦とチェチェン共和国の相互関係の基本に関する合意は、2001年12月31日までに得られなければならない」つまり、チェチェン独立の是非はこの日までに決まるはずだった。この日が訪れるより2年早く、ロシアはチェチェンへの戦争を再開した。

 チェチェンとロシアの間には他にも条約がある。97年5月、チェチェンのマスハドフ大統領のイニシアチブで、『平和と相互関係に関する条約』という、ごく短い条約が結ばれた。

 それにはこうある。第一次チェチェン戦争の終戦によって、「数世紀にわたる敵対関係の終結」を確認し、「紛争解決の手段として武力を用いることを、永久に放棄」し、かつ、「双方の関係を、常識的かつ国際法の基準に沿って発展させること。その際、双方は明確な合意のもとに対話を行う」と。

 いずれも、忘れ去られるべき詩的文書だった。ハサブユルト協定のとおりにチェチェンと交渉をすれば、交渉というものの性質上、何らかの譲歩をしなければならなかった。そして、「敵対関係の終結」を忘れなければ、軍事侵攻には乗り出せなかった。

 4年も続く、第二次チェチェン戦争の最初に何があったかを、思い出す必要がある。99年8月2日、マスハドフに反逆したチェチェンの野戦司令官のシャミール・バサーエフらが、ダゲスタンに侵攻した。ロシア側は撃退するかわりに、彼らの白昼堂々の撤退を、チェチェン領内までヘリ部隊をつけて護衛した。バサーエフはロシア軍参謀本部情報部(GRU)と関係が深い。彼らはおそらく共犯である。

 そして、8月31日、あのハサブユルト協定が結ばれた日に、モスクワ中心部のショッピングモールで爆破事件が起こり、実に300人の人々が犠牲になる連続爆弾事件が起こった。いまだに犯行声明はどこからも出ず、ロシア検察庁は2003年5月に、何の成果もなく捜査を打ち切った。これをチェチェン人の仕業とする証拠は、今のところ何一つない。

 この二つの事件をきっかけに、チェチェン戦争が開始された。明らかに無視されているのは、条約上の義務、つまり、「紛争解決の手段として武力を用いることを、永久に放棄」し、協議によって問題を解決することだ。具体的に言えば、「国際法の基準に沿って」、バサーエフと、彼を支援をした者たち(ロシア軍上層部)を処罰すること、そして、アパート爆破事件を、チェチェンの司法機関とともに捜査し、犯人を検挙することである。ロシア側がそうせず、チェチェンで無差別爆撃を開始した理由もまた、明らかだ。

 ロシア政府は、忌まわしい二つの文書を葬るために、すべてをもう一度破壊することにした。この戦争の最大の成果は、2001年を迎える前に、独立問題をうやむやにできたことだった。ハサブユルト協定に調印した者の1人、ロシアのアレクサンドル・レベジ退役中将は2002年4月に原因不明のヘリ事故で世を去り、当然、もう1人の調印者であるチェチェンのマスハドフも、ロシア特務機関に命を狙われている。その前任者が彼らに消されたのと、ちょうど同じように。(*)

ハサブユルト協定:
http://chechennews.org/archives/khasaviurt.htm

平和と相互関係に関する条約(仮訳):
http://chechennews.org/archives/peacetreaty.htm

(*) チェチェンの初代大統領のジョハール・ドゥダーエフは、1996年4月に 衛星電話で会話中に爆殺された。爆弾説と誘導ミサイル説がある。