チェチェン総合情報
ホーム | 更新情報 | 基礎情報 | チェチェンニュース | アーカイブス | 読者の意見 | イベント | ポリトコフスカヤ情報 | 林克明の仕事 | リンク | サイトについて

解題『子どもの物語にあらず』が訴えるもの
岩波書店/『世界』2004.2月号 林 克明

チェチェンで死んだロシア兵の葬儀に立ち会うビクトルと母親たち。(モスクワ/1995.10. 撮影:林克明)

「ぼくロシア人の子ども嫌い。だって大人になったらぼくたちを殺すから。だからロシア人の子どもを殺しちゃえばいい」

ザーラ・イマーエワさん制作のドキュメンタリー映画『子どもの物語にあらず』では、このような子どもの発言が飛び出す。これを観たあるひとは、はっきりと不快感を表した。

「こんな映画は不適切だ。こんなものがアムネスティのキャンペーンに使われるのは納得がいかない」

おそらく、「戦乱の中で悲惨な体験をしていても、人々を信じてけなげに生きる純粋な子ども」による「美しい物語」を期待し、少しでも人権や平和のためにつくしたい、との想いがこの人にはあるのだろう。できれば私もそう願いたい。だが、子どもは正直で現実をみている。だからこそ『子どもの物語にあらず』というタイトルは重い。

この少年に、あのような発言をさせたものこそチェチェンの現実と歴史をあらわしているからだ。

●地球最後の植民地戦争

チェチェンといえばテロというイメージが強い。また国際イスラムテロ組織の関与あるいはアルカイダとの関連をにおわす報道もあり、識者も発言している。これらは、事実の断片としては無視できないものの、「ロシア帝国」に武力で併合された人たちの苦難の歴史を無視している。

ロシア連邦の人口の一%に満たず、地図をみれば点にしかすぎないチェチェンが、過去四世紀にわたりロシアによる侵攻に苦しみ、独立宣言をし、それをロシア政府が軍事力で潰している。これが、この戦争の根本である。つまり植民地戦争であり、その他の問題は付随的なものではないのか。

●四〇〇年の歴史の重み

チェチェンは、連邦最南端にある小さな共和国。日本の岩手県ほどの広さで、推定人口一〇〇万人。住民はほとんどがイスラム教徒だが、宗教よりもそれ以前から伝わる風習をより重んずる伝統社会である。年長者を敬い、血縁はもとより近所づきあい友人づきあいなど人間関係が極めて濃厚で、相互扶助が徹底している社会でもある。

日本の戦国時代末期からロシアは領土拡張政策のためにチェチェンに侵攻、何度も戦争を繰り返し、最終的に一八五九年に武力でチェチェンを併合した。その後もチェチェン人は抵抗しているがそのたびに弾圧されてきた。特に一九四四年は、民族丸ごと貨車に載せられて中央アジアに強制移住を強いられ、人口の六〇%を失ったとも言われる。  

強制移住以降も抵抗はつづき、ソ連邦崩壊直前に独立宣言し、ソ連崩壊時の九一年にチェチェンは独立宣言した。九四年一二月、独立をつぶすために侵攻したロシア軍は、空爆、地対地攻撃と無差別に市民を攻撃したが、とりわけ九五年四月に起きた、ロシア軍が村人三〇〇人を殺害した「サマーシキ虐殺事件」は、多くの人に忘れられない傷を残した。さらに、住民を次々に逮捕し、強制収容所(フィルター・ラーゲリ)に送り、拷問や裁判なしの処刑を行ってきた。それは現在も続いている。

九六年八月にロシアは独立派に首都を奪還され、事実上の敗北を喫し撤退した。このときの停戦協定で二〇〇〇年まで独立問題は棚上げされることに決定された。この時点までに合計約八万人の犠牲者を出したが、そのうち非武装の民間人の犠牲は約四万九〇〇〇人と推定される。

●より残酷化した第二次チェチェン戦争

一九九九年八月、チェチェンのバサーエフ司令官らが連邦内のダゲスタン共和国に侵攻、これと併行してロシア各地で爆弾テロが頻発し、ロシア当局はチェチェンが絡んでいるとして九月には再侵攻に踏み切った。 前回を上回る大規模攻撃と住民虐殺がエスカレートしているため、地元の人は前回の戦争を「幼稚園の戦争」と呼ぶくらいである。ロシアの人権団体「メモリアル」などによると、死者行方不明者は約二〇万人と推定できる。

二〇〇〇年二月にロシア軍が首都のグローズヌイを制圧した。問題はそれ以降にロシア軍が展開している「掃討作戦」だ。その中身の例をいくつかあげよう。

二〇〇一年のはじめに一四歳の少女が拘束され、チェルノコーゾバ収容所で拷問と度重なる強姦によって死亡した。

同年一〇月一八日、ロシア軍は、クチャロイ村の妊娠八カ月の女性を連行し、拷問と強姦を繰り返し流産させた(本人は生存・以上アムネスティ・インターナショナルの報告)。

ラジオ・リバティの二〇〇二年四月三日の放送では、三月二五日から四月一日までにツォタンユルト村で一三歳から六五歳まで約三〇〇人の村民が拘束され、多数が拷問により負傷したが、「不当な扱いを受けなかった」という文書への署名を強要された。

このような状態にあった〇二年一〇月、世界を揺るがせたモスクワの劇場占拠事件がおきた。チェチェンの武装勢力が、戦争停止とロシア軍撤退を要求して観客およそ八〇〇名を人質に立てこもったのである。結果的にロシア特殊部隊の突入と毒ガス使用で一二九名の犠牲者を出したことは記憶に新しい。

●民族を背負うザーラ・イマーエワ

ザーラさんは、こうした民族の悲劇を背負った人である。国立モスクワ大学ジャーナリスト学科に入学。そのころに、後にチェチェン独立運動を担う重鎮たちとも知己を得ている。学生結婚と出産で休学し、また、卒論に「チェチェン人強制移住とジャーナリズム」を選んだために大学当局の困惑をもたらしたこともあり、卒業までに一〇年かかった。

チェチェンにもどり民間テレビ局設立に奔走するが、独立の激流に巻き込まれるなか、チェチェン外務省報道官に任命された。

第二次チェチェン戦争が始まると息子をイングーシ共和国に逃がし、難民を率いて吹雪の大コーカサス山脈を徒歩でグルジア共和国に脱出。グルジア経由でアゼルバイジャンまで逃れた。その後息子のチムールと再会するも、夫は戦争で殺された。

過酷な逃避行で痛めた体がある程度回復すると、亡命先のアゼルバイジャンで『子どもの物語にあらず』を製作し、その映画をもって来日したのである。

ザーラさん本人も語るが、いま起きている悲劇はロシアがチェチェンを侵略し始めてから四世紀も続いている。その間は、常にロシア側からの侵攻であり大量虐殺だった。チェチェン側がロシアを侵略したり、戦争をしかけたことはない。一見、チェチェン側が口火を切ったかのように見えても、調べれば明らかにロシア側の挑発がある。そのことが正確に報道されていないのだ。

したがって、重要なのは「チェチェン問題」というものは存在しないということだ。むしろ攻める側の「ロシア問題」であり、チェチェンはロシアの姿を写す鏡でもある。

林克明(はやし・まさあき)/ジャーナリスト
最新写真集『チェチェン 屈せざる人びと』好評発売中

標記媒体より、著作者の許諾の下に再掲